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 通勤途中、雨だというのに傘をさしながら犬の散歩をしている老婦人とすれ違う。トイプードルと老婦人は、髪型(犬もそう言っていいのか)も雰囲気もそっくりだった。  歩きながら自分の革靴に目がいく。全体的に傷や皺が目立ち、だいぶすり減っていて、こんな日には底から水がしみてくる。靴も持ち主に似るのかもしれない。今の俺は、この靴くらいボロボロだ。それでもいい。この靴を買い替えるなんてできない。  靴下が濡れる感覚を待ち構えながら歩いていたら、雨のにおいをかきわけるように、花の香りがやってきた。花にはまったく詳しくないが、とても和やかで、懐かしい香りがする。香りのするほうを見ると、小さな花屋があった。 『おーい、こっちこっち』  俺が花屋を見たタイミングで、花屋のほうから女性の声が聞こえた気がした。でも、その方向に女性の姿など見えない。不思議に思って周りを見渡してみても、皆一様に駅の方角へと歩いているだけ。立ち止まっている者も誰もいない。そのまま歩き出そうとしたとき、また。 『こっち。店先の隅のほうにいるよ』  聞き慣れた声だと気付いて足が止まる。いや、でも。そんなまさか。二年という時を経て、とうとう俺は幻聴まで聞こえるようになってしまったんだろうか。 『幻聴じゃないって。私、ここにいるよ』  にわかに信じがたいが、声のするほうへ近寄っていく。そうしてたどり着いた先、花屋の店先の隅には、一輪の花があった。ティファニーブルーの丸い鉢から小指くらいの太さの茎が伸び、細長い葉を二枚アシンメトリーにたたえた先に、白くてぽってりとした花が咲いている。チューリップの花をもう少し丸くしたような。花の中を覗き込むと、途端に香りが強まった。中心は薄桃色で、なんとも可愛らしい花だった。 『やっと来てくれたね。どう? 私、結構イケてるでしょ』  信じがたいことだが、この声、この話し方はやっぱり──。 「この花が気になりましたかな?」  雨の音で気付かなかったのか、いつの間にかそばに七十代くらいのじいさんが立っていた。ニット帽から覗くシルバーヘア。丸眼鏡の中の小さな目は、人がよさそうに垂れ下がっている。店名の入ったエプロンを見るに、恐らく花屋の店主だろう。 「ぁあ、はぁ、まぁ」  しどろもどろになりながら、間の抜けた返事をする。花がしゃべってる、しかも亡くなった彼女の声で……なんて言ったら、変な奴だと思われるに違いない。俺は店先の花に目を泳がせる。ほかの花には名札と値札があるのに、この白い花には名札も値札もないことに気付いた。店主が札を付け忘れてるとか? 「この花、茗子さんですよ。聡さん」  驚いて店主の目をまじまじと見つめる。その表情からは、何の感情も見えない。なぜその名前を。そして、俺の名前を。 『ビックリしたでしょ。私もビックリしたもん。まさか死んで花になるなんてさ!』 「い、一体どういうことだよ……」 「見ての通りです」  店主がにんまりと笑う。いやいや。見ての通りって。死んだ人間が花になるなんて、そんなこと信じられるはずがないだろう。でも、目の前で話すこの花を見れば見るほど、この花が茗子であることは疑いようもない事実だと思えた。このティファニーブルーは、茗子の好きな色だ。それにこのぽってりとした白い花。色白で、ちょっとぽっちゃりな茗子のイメージそのものだった。声も、話し方も。聡くん、と呼ぶその声も、あの頃のまま。 「どうしてこんなことが……店主さんですよね? あなた何者なんですか?」  店主はただ笑みを見せるだけで、俺の問いには答えない。 「この花、お譲りすることはできるんですが──」 「が?」 『聡くんの中にある私の記憶をね、店主さんに渡さなきゃいけないんだって』 「は?」 『だ・か・ら! 私との記憶を、店主さんに渡すの。渡したら、記憶は戻らないんだって。聡くんの中から、私の記憶が消えるってこと』 「そんなの嫌に決まってるだろ!」  悩むまでもない。何を言ってるんだ。茗子との思い出を消すなんて、そんなことできるはずがない。 『でも聡くん、このままじゃ、自分のことを責めて、雑に扱って、ぼろぼろになってくだけじゃない。見てられないよ。私は聡くんに、幸せになってほしいの』 「茗子との思い出があるだけでじゅうぶん幸せだよ。それに、茗子はここにいるんだろ? これから毎日会いに来られるじゃないか。ね、店主さん」  店主が残念そうに首を横に振った。 「それが、この話を当人にしてしまうと、花の命は持たなくなります……ほら」  その目線の先、花を見ると、先ほどまでの元気はどこへやら。花びらの先が萎れてきているのがわかる。 「ぇえ!? 茗子!?」 「どうするんです? あなたが世話をすれば、この花は元気に生き返ります。記憶を渡さないのであれば……このまま萎れ、枯れてしまうでしょう」 「そ、そんな……急に言われたって……」  迷っている間にも、着実に茗子は萎れていく。 『記憶を渡してくれなきゃ恨むよ。大丈夫。私がついてるんだからさ。花の姿だけど……』  みるみる萎れていく茗子の最後の声は、消え入るように切実に、俺の心の中に響いた。確かにここで見捨てることは、もう一度生を受けた茗子を、俺のわがままで見殺しにすることになってしまうような気もする。彼女には、自分がこうと決めたことを絶対に譲らない頑固さがあった。  花になっても変わらねぇのな……。 「……わかった。記憶を渡すよ……」  俺は腹を決めて、茗子との思い出を振り返った。
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