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第1章 蟹と出会う
揺ら揺らとした蒸気が、部屋を満たす。
さあ、そろそろ始めよう。散々な一日を一気に挽回させる一大イベントの開幕だ。
今日は朝から、ストレス解消のために、山登りに出かけたんだが、思いっきり降られてしまった。雨の山登りほど、イラつくものはない。まったく、今日の天気くらいは、確かめるべきだったよな。おかけで着替えやら何やらで帰ってから大忙しだ。ドロドロだ。家について直行したせいで、風呂場が汚いったらもう。
ーーでも今夜の俺にはこれがある。ふるさと納税で北海道から届いた、大好物の蟹。今夜はこれにむさぼりつく。そう決めてたんだ。1匹まるまるだ。一人で食いきれるだろうかという贅沢な不安につい頬が緩む。蟹は大好物だが、外食派の俺にとって、家で蟹を食うのは初めてのことだ。何だかドキドキしてきたぜ。
冷凍庫から大きな発泡スチロールを取り出す。北海道産紅ズワイ。
独身男の一人暮らしにしては、うちの冷蔵庫はでかい。買った時は、大きすぎて失敗したかと思ったが、蟹を取り出そうとしている今となっては、正解だったかもなと思う。
さて、それじゃあそろそろ蟹を茹で始めるとしよう。発泡スチロールの蓋を開くと、冷気とともに立派な蟹が姿を表した。茹でる前からもう、旨そうだ。
待てよ、蟹って何分くらい茹でればいいんだろうか。初めてなもんで、よく分からないな。スマホで調べてみよう。
「何だと…?」
冷凍の蟹は、茹でる前に30分程度水をかけて解凍しなければならないらしい。なんてこった。すぐ茹でで食べられると思っていたのに。
まあ、しかたない。ここはぐっとこらえて、風呂場で掃除の続きでもして待つとしよう。俺は水道の水を出しっぱなしにして、台所を離れた。
風呂場の掃除に予想以上にてこずったため、ちょうど30分くらいの時間が経過していた。湯を温め直して、蟹を鍋に放り込む。配膳の準備を終え、ソワソワしながら茹で上がるのを待っていた。蟹はすぐに紅く染まった。食欲をそそる、美味そうな紅だ。
火をとめて、ちゃぶ台へ鍋ごと運ぶ。
さてさて、いよいよいただくとするか。
蟹の頭を支えながら、立派な前足に手を伸ばす。
(ちょっと、待ってくれょ…!)
バラエティを映すテレビの音が五月蠅い。芸人がグダグダ話すだけのたわいもないトーク番組だ。集中して観ているわけじゃない。音量を下げようか。空いている左手でリモコンを操作する。あぁ、早く、蟹の脚をバキッと割って、プリプリの身を拝みたいぜ。
(おいっ、たのむやめてくれっ!)
さっきよりも大きな音で聞こえてきた。かなりボリュームを下げ、耳を澄まさなければほとんど聞こえない状態。どうもテレビの音ではないらしい。
また隣の夫婦が痴話喧嘩でもしてるんだろうか。やつら、本当に喧嘩ばかりしやがる。まったく、俺の至福の時間くらい、静かにしてほしいもんだ。
さてさて、ディナータイムに没頭しようとするか。ひとたび蟹にむしゃぶりつけば、隣の声なんて気にならなくなるだろう。
(頼むから私の話を聞いてくれ…!聞こえてるんだろう?)
ピタリと手を止める。
ハッキリと、男性のような低い声が聞こえてきた。絶対に気のせいなんかじゃない。
まさか、そんな、まさか。
事件なのか?
隣の旦那が俺に助けを求めているってのか?
俺は立ち上がり、そっと隣の部屋側の壁に耳をあてて、隣の会話を聞こうとした。
しかし、隣からは、何の音もしない。あまりにも静かだ。そもそも、やつらはいつも遅くに帰ってくる。この時間帯はだいたい留守のはずだ。
じゃあ、いったいこの声は、何だっていうのだろうか。下の階からも、上の階からも、特に大きな音は聞こえない。
「この蟹が俺に向かって話しているのか…?」
俺は、ありえない想像を、あえて役者のように声に出して言ってみた。
なんてな。そんなこと、あるはずがない。昨日観たB級映画『キラーカブトエビ』の影響で、変な思考になっちまってるのかもしれないな。巨大化したカブトエビが、田んぼから飛び出して人を襲うという下らなくてありがちな映画だった。でも、俺はああいう変な映画がどうも気になってしまう。まあ、それはよしとして。
今まで聞こえたのは、きっと空耳だろう。さて、余計なことは考えずに、蟹を食べよう。俺は壁の傍から離れて、ちゃぶ台の前に座りなおした。
(気のせいなんかじゃない…)
…まだ聞こえるぞ。
こりゃあ、ちょっと異常事態だ。しかも、どうも耳から聞こえているんじゃない。何というか、脳に直接語りかけてくるような、生暖くて妙な感じだ。
俺はホラー映画は大好きだが、霊を信じてなどいない。信じてないからこそ、あの手の映画は楽しむことができるのだ。『キラーカブトエビ』だってそうだ。ありえないから、くだらなくて面白いんだ。まさか、自分がこんな体験をする日が来るなんてな。
まったく、気味が悪いぜ。もしかして、幽霊なのか?霊現象なのか?
ゴクリと唾を飲み込み、あたりを見回した。
それらしい影はない。
もちろん、侵入者だっていない。
(…そうだ。私が君に語りかけているんだ)
(私だよ。君の目の前にいる、蟹だよ)
俺は飛び上がってちゃぶ台の傍から離れた。
おいおい。嘘だろう。嘘だと言ってくれ…。
呆然と蟹を見つめながら固まっている俺に構うことなく、蟹は語りだした。
(初めてだよ。私の声が届いた人間は。漁師にも、加工所のご婦人にも、私の声は届かなかった。蟹の声聞こえし男性よ。まずは、私の話を聞いていただけないだろうか)
相手は蟹だから、恐いってことはなかったが、流石に驚いてしまった。これは現実に起こっていることなのだろうか。
「わ、わかった。わかったが、ちょっとだけ、落ち着く時間をもらえるか」
大きく深呼吸して、2分ほど心を蟹を見つめる。ようやく、少し落ち着いてきた。
昨日、『キラーカブトエビ』を観てなかったら、気を失っていたかもしれない。つまらん映画だったが、役に立つこともあるもんだ。
蟹の声が聞こえるという事実を消化しきれない上に、目の前のこいつを食べる気は流石に失せてしまった。だが、腹は空いている。俺はしぶしぶ蟹を茹でたお湯をそのまま使って、カップ麺をすすりながら、蟹の話を聞いてやることにした。
「で、話ってのは?」
(ああ、蟹の声聞こえし男性よ、少し長くなるがよく聞いてくれ)
「その前に、その呼び方はやめてくれ。俺は林田。おまえは何て名前なんだ?というか蟹に名前はあるのか?」
(海底の文化に、名前というものは存在しない。私はただの蟹だ)
「そ、そうか。まあ俺のことは林田と呼んでくれ。愛称のリンダでも構わないぜ」
(分かった。では敬意を込めて、きちんと林田と呼ばせてもらおう)
いや、そこはリンダって呼べよ。蟹相手にこんなこと言って、めちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。
(林田、私はこう見えて天然物の蟹なんだ)
こう見えてってどう見えてると思ってんだろう。野生で育ったにしては形がきれいとでも言いたいのか。つまり見た目の自慢か。つくづく変な蟹だ。というか、蟹は養殖がほとんどないって聞いたことがある。理由までは忘れたが。まあ、今は、この天然物の蟹の話を聞いてやるとしようか。
(私には妻と娘がいる。家族と共に捕まってしまったのだ)
(利尻の海底で、いつも通り家族仲良く貝殻遊びをしていた時だった…)
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