宮古の桜

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宮古の桜

花は咲く 柳はもゆる 春の夜に 見上げた空をさえぎるように、大きな枝ぶりの桜がたくさんの花を咲かせていた。いつからあるのかわからない、なぜこんなところに一本だけあるのかもわからない、そんな樹だった。 「京では大きないくさがはじまると家人の者たちが噂していました」 なかは薄い浅黄色の、カキツバタの葉の地紋の色無地の着物姿で、ときおり強く吹く野風にその裾を気にして歩いていた。 「外国がうるさくってさ、そいつらと喧嘩するかなかよしになるかってとこで揉めてんのさ」 「東さまが心配しておりましたが…」 東政図(ひがし まさみち)は俺と同じ家老職だ。俺より頭がよくて先進的なんだが、そのわりに古武士風の剛直な性格が災いして隠居さまには受けがよろしくない困ったやつだ。 「代々幕府の御恩顧を賜るわが藩において、うわっついた輩の振り回す尊王思想にかぶれるとはなにごとだ!と殿さまからこっぴどく叱られ蟄居させられたのに、あいつケロッとしてやがるんだからな、参っちまうぜ」 親友、とも言える東の顔を思い浮かべながら佐渡は寂しそうにそう言った。 幕末、わが日の本はその騒乱のなかにあった。それはこの国のすべての藩のなかも同様に、みな混乱していた。楢山佐渡(ならやま さど)は二十二歳で南部藩の家老となり、いまは筆頭の職にあった。その妻、なかは南部藩江戸屋敷家老の奥瀬嵩棟(おくせ たかむね)の次女で、去年江戸から輿入れしてきた。 まだ初々しさの残るなかの顔を見ると、心のなかが何かもやっとして、つい戯れ口を聞かせてしまう。悪い癖だと自分でも思うが、性格なんだから仕方ない。 「父上が心配して手紙をいくつも寄こすんですよ」 その顔は困った、というよりむしろ喜んでる顔だ。またもやっとしたものが心に沸いた。 「そんなもんより江戸のうまいものを送ってくれと、こんど頼んどけ」 「いやだわ、そんなこと書いた返事出すの」 「で、こんどの将軍さまはどんなやつだって?」 そこが肝心の話だ。そいつで万民がいま一喜一憂してるんだ。 「父は、将軍さまのことを水戸からやって来た頭でっかちの灰坊主(あくぼうず)だって」 「灰坊主?」 「火のないとこをかき回して火種を見つける天才なんだって」 南部に伝わる妖怪譚で、囲炉裏の灰をかき回すと出てくるおばけだ。火の始末やあとで掃除が大変だから、いたずらするわらはんど(子供)をそう脅かしているんだ。 「あっはっはっは、そいつは笑える。なるほどねえ、さすがおやじさまだ」 「笑えませんよ。ほんと、ご公儀に知れたら首が飛びます」 「まあそういうな。ほら見ろ、なか。みごとなもんだ」 この宮古は盛岡城下からかなり遠く、辺りはもうほとんど荒野だったが、そこに一本の桜の樹があった。佐渡はどうしてもこの桜をなかに見せたくて、無理に引っ張ってきたのだ。 そうして桜の樹は、薄淡い桃色の花びらをふたりに降らせた。 「きれい…」 そう笑ったなかに、佐渡はまたもやっとしていた。
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