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「わぁー、綺麗。まだ桜が咲いてる!」
車窓から外を眺め、佳代はシートで小さな身体を弾ませた。その後ろ姿を見ながら、玉男は目を細めた。
高速を降り、いろは坂を越え、中禅寺湖が視界に広がる頃になると、四月も下旬だというのに桜がちらほらと咲いているのが見えた。
考えてみると、佳代を連れて車で出掛けるのも久しぶりの事だ。はしゃぎぶりを見るにつけ、連れてきて良かったと思う。静雄の勧めとはいえ、意外と良い機会に恵まれたものだ。
佳代は玉男と三番目の妻との間に生まれた一人娘だ。小学一年生の七歳。フリルのついたお人形のようなドレス姿を除いても、一番可愛い盛りの時期である。
「この世の中で一番大切な相手」と言われて、玉男が真っ先に思い付いたのは佳代だった。美食の為には容赦なく周囲を切り捨てる藤静雄同様、玉男も時に身内に対して非情な態度をとる事がある。結果として三度結婚した妻はいずれも長続きせず離縁してしまったが、唯一血縁関係にある佳代だけは文字通り目に入れても痛くないほどの可愛がりようだった。
「ねぇ、そろそろかなぁ?」
「ああ。あと三十分ぐらいか。今からそんなにはしゃいでいたら、着いてからもたないんじゃないか」
「大丈夫。私、頑張るから!」
佳代は屈託ない笑顔を返した。玉男のため、シェフと力を合わせて料理をすると聞かされた佳代は、前日から興奮を抑えきれない様子だった。
車は国道から脇道に入り、車もすれ違えないような細い道を奥へ奥へと入って行く。周囲の様子から察するに、どうやら開発に失敗して放棄された別荘地といった風情だ。
やがて、木立の隙間を縫うように大きな建物の姿が見えてきた。煉瓦で彩られた巨大な洋館だ。
「どうやらあちらが、そのようです」
運転手が告げ、手前の駐車場らしき砂利の上に車を停めた。屋敷の周りは鋳鉄製の柵に囲われてはいるものの、庭を手入れしている様子は一切ない。柵の内も外も、無秩序に伸びた雑草で覆われていた。煉瓦敷の小道だけが、そこだけ自然の侵略を拒むかのように真っすぐに屋敷へと伸びている。
「すごい、お城みたい」
車から飛び出した佳代は、無邪気に目を輝かせた。運転手に待つように言い残し、玉男は佳代とともに屋敷へと歩を進める。すると向こうから、黒いタキシードに身を包んだ一人の男がやってきた。
「ようこそ。豊村様でございますね。お待ちしておりました。本日お世話をさせていただく味川と申します」
「いかにも。予約していた豊村だ。こっちは、娘の佳代」
「では、こちらがこの世の中で一番大切な相手という事でよろしいのですね?」
「ああ。まだ七歳で、包丁などほとんど握った事もない。お手柔らかに頼むよ」
「それはそれは。調理するにはちょうど良い年頃です。ではまずお嬢様は厨房の方へご案内いたしましょう。豊村様はしばしお待ちくださいませ」
「パパ、またね」
佳代は楽しそうに手を振り、味川に手を引かれながら屋敷の奥へと消えて行った。
「それでは豊村様は、こちらへ」
戻って来た味川が、今度は別のドアを示す。
ドアの先は、六畳ほどの小さな部屋だった。窓一つなく、部屋の中央のテーブルに置かれた一本の蝋燭だけがゆらゆらと頼りない光を放っている。
「事前にお知らせしていたかと思いますが、調理にはお時間がかかります。こちらに掛けてお待ちください」
直径一メートル程の、一人用の丸テーブル。洗いざらした真っ白なシーツがかかり、その上にはグラスもカトラリーも何一つ見当たらない。これからセットするのかと思いきや、玉男が座った途端、味川はふっと蝋燭を吹き消した。
突如周囲を漆黒の暗闇に包まれ、玉男は思わず息を飲んだ。
「まだ時間がかかるんじゃなかったのか」
「はい。ですが暗闇の中で、じっとお待ちいただくのが当店のルールでございます。どうか今の間だけは時を忘れ、心静かに料理の完成をお待ちください。その間、こちらをどうぞ」
玉男の手に、何かが触れた。硬質で滑らかな感触は、グラスに違いない。反射的に持つと、トクトクと中に液体が注ぎ込まれるのがわかる。
「ただのミネラルウォーターですので、ご安心を。それでは」
味川はそう言い残し、消えてしまった。いや、もしかしたら部屋の片隅でじっと玉男を見守っているのかもしれない。いずれにせよ周囲は完全に闇に包まれ、玉男には自分の体さえ視認する事ができなかった。
しかしどうやら――味川の方には、玉男の様子が見えているらしい。暗視スコープか何かを使用しているのだろうか。そうでもなければ、暗闇の中で水を注ぐなんて至難の業だ。
急に不安に襲われ、玉男は恐る恐るグラスを口に運んだ。
流れ込んできたのは、無味無臭の水に間違いなかった。
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