暗闇レストラン

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 ある日の昼下がり、突然ふらりとやってきた藤静雄に、豊村玉男は驚いた。 「どうもご無沙汰しております」 「おやおや藤先生、これは珍しい。今日は奥様はご一緒ではなかったのですか」 「少し事情がありましてね。私一人で参りました」  ぎこちなく言う静雄に、玉男は引っ掛かるものを感じた。  つい昨年、静雄は四人目の妻として二回り以上年下の若い女優を迎えたばかりだった。それまでの三人からは考えられない程静雄は新しい妻を溺愛し、まるでアクセサリーのように連れ歩いていたというのに。  しかしその疑問は、続く静雄の言葉にすぐさま氷解した。 「二人だけの秘密にしていただきたいのですが、豊村さんにぜひともお勧めしたい店が見つかりまして」  静雄は関西に拠点を置く藤調理師専門学校の創設者であり、日本を代表する料理研究家でもある。学校の講師陣を使って定期的に催されるガストロノミック・アカデミーには日本を代表する政財界の傑物のみが招かれ、素材にも調理技法にも贅を尽くされたこの世の美食の粋とでも言うべき料理が振る舞われていた。  一方で、少しでも難があれば担当した講師は客前へと呼び出され、容赦なく静雄に叱責を受ける。あまりの厳しさに、どこの一流ホテルや料亭でも料理長として務まるような人物が、その日を限りに包丁を捨て、料理人の道を断ったケースも数限りない。  玉男はそのガストロノミック・アカデミーの古株の一人であり、時には静雄とともに料理に批評を加える事まで許された美食家でもある。しかし、ここ数ヶ月、アカデミーへの招待がないどころか静雄からの連絡もぱったり途絶え、怪訝に思っていたところであった。 「何かと思えば店、ですか。久しぶりにアカデミーにお招きいただけるのかと思いきや、驚きですな。先生が人目を忍んで教えに来る程でしたら、よっぽど素晴らしい店なのでしょう。しかしながら、藤先生のアカデミーを凌駕する程の店などこの世には存在するのでしょうか」  どんな高級店であれ、営利目的で営業する以上は原価率や人件費等、様々な制約を受けざるを得ない。究極の美食のみを純粋に追い求めるガストロノミック・アカデミーとはそもそもの前提条件が違うのである。 「いえいえ、ところがそうとも言い切れないもので。先日その店を利用して以来、私もすっかり美食などというものにうつつを抜かすのが馬鹿馬鹿しくなってしまいました」 「先生が美食を馬鹿馬鹿しいと。それは忌々しき事態ですな。それで一体、その店というのはどんなもので」 「はぁ。奥日光の山奥にあるゲストハウスを改装した店なのですが、あくまで紹介のみで営業しているので、一般には知られていません。さらに、利用するには一つ条件があります」 「条件が?」  玉男は眉を潜めた。 「ええ。その店で食事をする際には、のです」 「なるほど。ヨーロッパの三ツ星レストランに倣い、男女カップルでの利用が前提というわけですな」 「いえ。食事を摂るのはあくまで利用者本人だけなのです。同行者は、シェフとともに料理に参加する事になります」 「同行者が料理を……それは例えば、妻が料理教室で作った料理を夫に振る舞うようなものですか。まぁ愛する者が作ってくれた料理であれば、例えそれが卵かけご飯だとしても何よりのご馳走かもしれませんな」 「いえいえ、それともまた違うのです。あくまで条件は、というものですから。人によっては、犬や猫といったペットを連れて行ったケースもあるという事ですよ」 「犬や猫がシェフと一緒に料理を。それはもう愉快という他ありませんな」  玉男は失笑した。久しぶりに会った藤静雄は、持ち前であった満ち溢れるほどのバイタリティがすっかり消え失せ、まるで別人のように見えた。しかし静雄は意に介す様子も見せず、柔和な笑みを浮かべたまま続けた。 「私は妻を連れて行ったんですがね。しかしあれは、本当に衝撃的でした。お陰で今は、すっかり生まれ変わった気分です。この際だからガストロノミック・アカデミーも解散してしまおうかと考えていまして」 「アカデミーを解散? それはまた急な。いけません。私達はアカデミーに招待されるのを最大の楽しみとして日々を送っているのです。仮に藤先生が辞めるとおっしゃったとしても、解散は決して許されませんよ。私は断固として反対です」 「ええ、ですから。豊村さんにはぜひ、私と同じ体験をしていただきたいと思い、こうしてやってきたわけです」 「藤先生と、同じ体験を……?」 「はい。ただしそのレストラン、もう一つだけ風変りな点がありまして」  静雄は深く頷き返し、言った。 「……暗闇の中で、食事をしなければならないのです」
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