花しか食べられない君

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 長く長く続いた戦争から男達が帰ってきた。この小さな寂れた村にも。カルミアは、ユーリが帰って来たときにやっと戦争が終わったと実感した。無事にユーリが帰ってきた。それだけで幸せだった。  しかし、戦争から帰ってきた男達は脱け殻のようになっていて、ある男は酒びたりで妻子に暴力を振るい働きもしない。ある男は寂れてる村を捨て傭兵として新しい戦争へと向かった。ある男はならず者の頭になり、荒事の限りを尽くした。  そんな中で若いユーリは臥せるように寝込み、食べ物を一切口にしなかった。ユーリの両親は一人息子をえらく心配して、なけなしの蓄えを削り、高級な美味しい物を買ってユーリに食べさせようとした。  王都で貴族が食するという高級な霜降りの牛肉、王妃様が好むという噂の杏のゼリー、遠い異国で消化が良い食べ物とされる米の粉で作ったパスタのような細い麺。しかしユーリは何も食べなかった。 「僕には物を食べる資格がない。多くの人の尊い命を奪い食料を強奪した。僕は生きて帰るべきじゃなかった。この美味しそうな食べ物は父さんと母さんが食べてください。そして…もう僕のために贅沢はしないでください。それが僕の最後の願いです」  ユーリの両親はお願いだから何か食べてくれと懇願したが、その願いをユーリは聞き入れなかった。村に帰ってきてから水しか飲まないユーリは、見る影も無く痩せ細った。幼馴染みのカルミアは度々ユーリを見舞い、床から体を起こすのも辛そうなユーリを助け起こして水を飲ませた。 「ねえ、ユーリ。食べ物は無理でもお水だけじゃ飽きてしまうわ。井戸水にね、お花を浮かべてみたの。このお花は食べられるから、そのエキスも飲んで問題はないって。長老に聞いたのよ」  ほのかに薔薇の香りがする水を、ユーリは一口だけコップから飲んだ。 「いい香りだね…ありがとう。でも、カルミア。君の手が傷だらけじゃないか、薔薇を手折るときに刺で怪我をしたのだろう?僕のためにこんなことをしなくていい。僕はもう死ぬべき人間なんだから」 ユーリがカルミアの傷だらけの手を、骨と皮だけになった枯れ枝のような手で撫でる。カルミアは堪えていた涙が溢れてしまう。 「あなたが帰って来て私は生きていて良かったと心から思えたのに、どうしてそんなに悲しい事を言うの?」 「何人もの人を殺めて、食料を奪い、町に火を着けて焼いた。人殺しに生きる資格はない」 「それは戦争のせいよ。誰かを殺さなければ自分が殺されてしまう。自分を責めないで、お願い」 「今でも夢に出てくるんだ、敵の兵士が息絶えたときの目、食料を守ろうとする幼子を抱えた母親の悲鳴、火から逃れようとするも、足腰が悪くて逃げ遅れて火達磨になったおじいさんの焼ける臭い。もう二度と食べ物を口にする気になれない」 「食べ物は食べられなくても、この薔薇を浮かべたお水は美味しい?」 「ああ、とても美味しいよ。でも、もう要らない。カルミアの手が傷つくから」 「つる薔薇を手折るのが下手なだけよ、薔薇を育てて収穫するコツを長老に教えて貰ってるの、今。上手になれば怪我なんてしないわ。だからお願い、せめてこの水だけは飲んで」 「カルミアにだけそんな重労働はさせられないから、僕も長老の所に行く。自分で飲む水に入れる花くらい、自分で育てるべきだから」 「ダメよ、ちゃんと食べてないからユーリが倒れちゃう。私が薔薇とお水は持ってくるから大人しくしてて」 「少しでも…残り少ない命でも君と出来るだけ共にいたいんだ…。長老の所にはカルミアがどんなに反対しても行き、つる薔薇を一緒に育てる。この命が尽きるまで君を愛し続けたい」 「ユーリ…私もよ。愛してる…」 初めて触れ合った二人の唇は、甘酸っぱい薔薇の香りで包まれていた。水差しに浮かんだ薄いピンクの薔薇の花びらのように、そっと優しく二人の唇は重なり合った。  長老の元でつる薔薇を育てながら、ユーリはミイラのように痩せ細って行く。頬はこけ、豊かなオリーブ色の髪は栄養不足で抜け落ち、目はどくろのようにおちくぼんでいた。村一番の美しい美少年ユーリの面影はもうどこにもない。ユーリに熱を上げていた他の女の子はユーリを化け物のようだと避けた。  しかし、カルミアとカルミアの両親、ユーリの両親だけはユーリを愛し続けた。この村からは貴重な鉱物が出るので、兵隊に取られる男は、若い男か年寄りの一歩手前と決まっていた。鉱物を採掘する男手が必要だからだ。カルミアの父とユーリの父は鉱物の採掘に必要な人手と見なされて、兵隊に取られなかった。  薔薇を浮かべた水しか口にしないユーリを長老は、ただ静かに見守った。つる薔薇の世話や手入れをカルミア任せにせずに、針金のような細い手足で黙々と働くユーリの勤勉さに感激していた。長老のひ孫位の年齢のユーリ。長老は働くユーリとカルミアを見て呟いた。 「無償の愛と献身、カルミアはまるで女神だ。あんなやつれた体を酷使して土にまみれて働くユーリは生きたまま神の御子になったのかもしれん」  儚く散りゆく薔薇の花びらようにユーリの命の炎は弱々しくなっていく。あと十日持つかどうか…。村の誰もがユーリの衰弱死を予期していた。  そんなある日、この小さな村に盗賊が現れた。兵器の材料になる貴重な鉱物が出るこの村には、王都から派遣される護衛兵がいる。しかし、護衛兵に賄賂でも渡したのか、盗賊が村のあちこちで略奪を始める。盗賊に見つからないように逃げ隠れる村人達。カルミア、ユーリ、長老の三人はつる薔薇を育てている森に隠れた。薔薇の世話をしているときに盗賊達が武器を手に攻め込んで来て、逃げ場を失った形だ。  金目の物がないこの薔薇の園は格好の隠れ場所になるはずだった。しかし、薔薇の花びらから香水が作れると知っている奴が、運悪く盗賊にいた。盗賊がつる薔薇を薙ぎ倒して無造作に袋に詰めていく。せめてカルミアだけは助けようと長老とユーリはナタを構える。人がいるとは思っていない盗賊は隙だらけで、三人いた盗賊を背後から仕留めたユーリ。長老も老体に鞭を打って、一人を仕留めた。  盗賊達が去った後、ユーリは血にまみれたナタを持ってただただ震えていた。また人の命を奪ってしまった。なんて罪深い人間なんだ、僕は。突然の戦闘と死体の山を見てショックで気を失ったカルミアを家に送り届け、長老が薔薇の園に戻ってきた。  「王都からの命令を受けた護衛兵が盗賊の賄賂に目が眩むとは世も末よのう。ユーリ…。またこういうことが起こるだろう。そのときにカルミアを守るのは誰だ?」 ユーリは唇を噛み締めて考え込む。そして、血まみれのナタを強く握り直した。 「僕です、僕が必ずカルミアを守ります」 長老は深く頷いてから告げる。 「そのためには食べろ。腹が減らなくても戦闘の記憶が頭を掠めても、愛する者を守るために物を食べて生きろ」 「長老…」 「この老いぼれじじいも、遥か昔、戦争から帰ってきたはいいが、何も食べられない時があった。生きながら死んでいた。でもな、かみさんに赤ん坊が出来た。赤ん坊を育てるのに働くしかない。だから食った。吐いても食った、腹が慣れるまでは吐いて食って吐いて食ってその繰り返しだ。そのうち吐かずに食えるようになる」 「長老にも食べられない時期が…」 「ああ。愛する者のために食って生きて無心で働く。戦争の記憶に鍵をかけて」 「やってみます、ご心配おかけしました」 ユーリの瞳はやっと光を取り戻した。  長老の言う通り、最初は胃腸が食べ物を拒否したが、慣れると吐くことも減り少しずつユーリは物を食べる生活を取り戻していった。  カルミアは食欲を取り戻したユーリのためにパイを焼いて、いつもは水差しに浮かべている薔薇の花びらを散らした。砂糖と卵白を混ぜたアイシングで薔薇の花びらをパイにくっつけた。まるで雪の中に咲く薔薇のように、パイの表面は甘く華やかに飾られた。このパイは長老と一緒に世話したつる薔薇の園、そのもののような模様だった。  パイを持ってユーリの家に行って切り分ける。ユーリの両親も可愛らしい薔薇のパイを喜んでくれた。そして、ユーリから思いがけない言葉が聞けた。 「甘くていい香りだ。カルミアお腹がすいたよ、早く一緒に食べよう」 カルミアとユーリの両親は美味しそうにパイを頬張るユーリを見て泣き出した。泣き出した三人を見てユーリが謝る。 「ちゃんと食べるからもう泣かないでくれ。こんなに綺麗なパイを見たら、急に思い出した。お腹がすく普通の感覚と、食事が楽しいという気持ちを。ありがとう、ごちそうさま、カルミア。美味しかったよ」 「良かった、食いしん坊のいつものユーリが戻ってきた」 カルミアがからかうとユーリが言い返す。 「食いしん坊はカルミアもだけどな。お祭りの砂糖細工を食べ過ぎて口の周りをベタベタにしてたくせに」 「ちょっと、いつの話してるの!?」 「5歳の頃から食いしん坊のカルミア」 「うるさいわね、ユーリもでしょ。子供の頃に胡桃を食べ過ぎて、お腹が張って苦しくてわんわん泣いてた癖に」 「フフフ、賑やかでいいわね」 ユーリのお母さんが目を細めて微笑み、ユーリのお父さんも微笑み返す。 「ああ、将来はいい夫婦になりそうだ」 カルミアとユーリに聞こえないように、ユーリのお父さんはユーリのお母さんにそっと囁いた。  それから食いしん坊のユーリのために、カルミアは色々な料理やお菓子を作った。ユーリは畑で働けるまでに回復して、来週からは、この村の男の仕事である鉱物の採掘に戻る。すっかり元気になった。 「お腹すいた、カルミア。今日のおやつは何?」 カルミアは焼き立てのパンケーキにハチミツを掛けてユーリに出す。パンケーキの山があっという間にユーリのお腹に消えてしまう。ガツガツと食べるユーリを見てカルミアは今度こそ戦争が終わったと思った。ユーリの心の傷がかなり癒えたから。 (了)
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