水たまりの底から

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 小学生の頃、自分のコピーを作ることにハマっていた。  まるで判で押したかのように、顔の造形も、体格も、性格も声も、まるきり自分そっくりの人間をつくることが、私にはできた。作り方は至って簡単だった。  まず雨が降った次の日に、直径二十センチほどの水たまりを探す。  水たまりのそばにしゃがみこみ、暗い水面に映し出された自分の顔をじっと見つめる。そうして一分ほどしていると目の前に人の気配を感じる。  顔を上げると、そこには同じ服に身を包んだもう一人の自分が立っているのだ。  初めて自分のコピーをつくったのは、小学校二年生のときだ。しゃがみこんで、水たまりの水面を、傘の先端でつついて波紋をつくって遊んでいると、突然自分そっくりな人間が現れて驚いた。 「私もやっていい?」  私と同じ服に身に包み、同じ髪型で、同じ声で、同じ遊びに興味を示す彼女。唯一、違う点は、左の目元に落ちた小さなほくろだけ。私には、右の目元にほくろがあるから。  あっけにとられながらも、私は「だれ?」と尋ねた。 「私は、あなたの分身。好きに使って?」  彼女は、傘の先端で水たまりをつつきながらそう笑った。  友達がいなかった私は、彼女の「好きに使って」という言葉をありがたく受け取り、彼女に遊んでもらうことにした。彼女は快く引き受けてくれた。水たまりを傘でつついて、どちらが大きな波紋をつくれるか競争をする。その遊びに飽きたら、水たまりの水を土に含ませ、泥団子をつくることにした。  やがて、日が暮れだした。 「もう帰らなきゃ」  私が言うと、彼女も「私も」と言った。 「じゃあね。楽しかった。また呼んでね」  彼女は名残惜しそうに笑った。瞬きをした隙に、彼女は消えていた。たった一時間ほどの出来事だった。  それからは、私は頻繁に彼女を呼び出して一緒に遊んだ。  自分の分身なだけあって、私と趣味や性格が同じなので、何の遊びをするかもめることもなかったし、喧嘩をすることもなく、とても楽しく過ごせたのである。彼女は、別れ際にいつも名残惜しそうに「また呼んでね」と言って笑っていた。  小学校三年生になるころ、私に転機が訪れた。  クラス替えがあり、私には奈々ちゃんという友達が出来た。  奈々ちゃんは明るくて活発な子だった。私が、自己紹介のときに挙げた好きな漫画のタイトルを奈々ちゃんも知っていて、それをきっかけに話しかけてきてくれた。  私は控えめで大人しいタイプだったので、奈々ちゃんのような快活な友達は新鮮で、いつしか私は自分のコピーを作ることもなくなり、奈々ちゃんとばかり遊ぶようになってしまっていた。  そんなある日のこと、図工で使う彫刻刀をランドセルに入れ忘れて登校するという事案が発生した。気が付いたのは、学校まで目と鼻の先まで来た時だった。家に取りに戻っていたら遅刻してしまう。焦ったそのとき、水たまりがあるのを見つけた。  この頃は、コピーをつくることはすっかり少なくなっていたが、久しぶりにコピーをつくった。 「やっと呼んでくれたね」  久々に私と会えたからか、コピーは嬉しそうだった。  呼んでくれた、というその言葉を彼女の口から改めて聞いた私は「そうか、今まで私はコピーを『つくっている』と思っていたけれど、本当はコピーを水たまりの中から『呼び出していた』のだ」ということを理解した。  代わりに怒られてくれないかと頼むと、彼女は二つ返事で了承してくれた。私は家に帰り、自分の代わりにコピーのほうを学校に行かせた。両親は共働きだったので、帰宅しても咎める人はいなかった。  帰宅した途端「これで、すべてがうまくいった」と安堵の息がこぼれたのを覚えている。  しかし、翌日のことだった。私が学校に行くと、なぜかクラスの皆がよそよそしかった。どうも避けられている気がするのだ。 「お、おはよう」  いつも明るい奈々ちゃんも、私を一目見るなり、びくりと身を震わせ、どこか怯えたような態度で挨拶してきた。 「どうしたの? 今日なんか皆おかしくない? なにかあったの?」 「え……? 覚えてないの?」  私の言葉を聞いた奈々ちゃんは、驚いたように目を瞬いてみせた。 「あんた昨日、先生にめっちゃ言い返してたじゃん」 ――え?  意味がわからなかった私は、くわしく昨日のことを尋ねた。  奈々ちゃんが言うには、こういうことだった。  昨日、図工のときに必要な彫刻刀を持ってくるのを忘れた私は、先生に注意を受けたらしい。私だったら大人しく謝るのだが、コピーは「うるせえクソババア」と先生に向かって暴言を吐いたと言うのだ。  普段は引っ込み思案な私がそんな行動をとったため、クラスは騒然となったのだと言う。  私にはわけがわからなかった。だって、私はコピーにそんなこと頼んでいない。  代わりに怒られてくれと頼んだだけなのに……。  なんだか急に恐ろしくなった。  自分が頼んでいないことをコピーが勝手にやってしまう可能性があるということは、コピーが勝手に万引きや暴力を振るってしまったら、私が罪を被らないといけなくなってしまうということだ。  もうコピーを使うのはやめよう。  そう心に決めた。  しかし、その日の帰り道のことだった。  奈々ちゃんが用事があると言うので、私は一人で下校していた。家の近くまで来た頃、曲がり角から突然ひょいっと女の子が顔を出したのだ。  思わず息を呑んだ。  それは、私にそっくりな格好の女の子――私のコピーだった。  なんで? なんでいるの? 私は呼び出してなんかいないのに……!  立ちすくむ私をよそに、コピーは満面の笑みでこちらに近づいてくる。  そして私の一歩手前まで来て立ち止まり、言った。 「ずるいよね、あなたって」 「……え?」 「友達がいて、毎日学校で楽しく過ごせて」 「な、なにそれ? ていうか、どうしてここにいるの? 勝手に出てきたの? 私、今日はコピーのこと呼び出してなんかないのに」 「でも昨日は、私を呼んだでしょ? 昨日からずっと帰らずにいるだけだよ。勝手に出てきたわけじゃないから」  帰らなかった……?  コピーはいつも、いつの間にかいなくなっていたけど。私がこの世界に住んでいるように、彼女も自分が住んでいるどこかの世界に帰っていたのだろうか。 「ね、ねえ。どうして昨日先生に言い返したりしたの? 奈々ちゃんから聞いたよ。私そんなこと頼んでない」 「あなたがちょっとくらい困ればいいなと思ったの。羨ましかったから」 「それってどういう……」  言いかけて、途中で気が付いた。斜陽に包まれた通学路で、私とコピーの足元に伸びた影が視界に映る。  私の足元の影がだいぶ薄くなっている。それとは反対に、コピーの足元のほうに濃い影が落ちていた。まるで、コピーのほうが本物の人間みたいに思えて、空恐ろしくなった。 「ねえ、私たちそっくりだよね。このまま私がずっと帰らずにこの世界に留まり続けて、あなたと一緒にいたら双子みたいに思われるかも」  コピーは本当に楽しそうに笑った。 「ていうか、あなたと私そっくりだから入れ替わったところで、誰も気づかないんじゃないかなあ」  その言葉に、ゾッとした。このままでは、私はコピーに乗っ取られてしまう。  恐怖に陥れられた私は、ランドセルをアスファルトに下ろした。中からペンケースをつかんで、カッターナイフを取り出す。手が震えていた。  こうするしかないと思った。コピーがずっと帰らないつもりなら、今ここでコピーを殺してしまうしかない。  さすがのコピーも予想外だったのか、驚いた表情を浮かべた。  カッターナイフを持った私は、コピーめがけて走り出した。 * 「……それで、あんたコピーのことは殺せたの? ていうか、それ本当の話なの?」  私、佐々木奈々はこわごわと尋ねた。  目の前の友人は、意味深にニコリと笑みを浮かべてみせた。  小学校を卒業してから一か月が経つ。  お互い別々の中学に進学したが、この子から「久々に会って話がしたい」と言われ、ファミレスに呼びだされた。そこで早めの夕飯を食べながら小学校の思い出を話していた最中、いきなり彼女からコピーの話をされたのだ。  本当の話かどうかもわからなくて、正直私は半信半疑だった。でも、この子が昔、図工の時間に持ち物を持ってくるのを忘れ、先生に注意されたとき「うるせえババア」だのと罵詈雑言を吐いて、クラス一同が騒然となった出来事は覚えていた。それに加え、翌日、登校してきた彼女はまるでそのことを覚えていないような様子で、その点もなんだか奇妙だった。  だから、彼女の話は不思議とそこまで嘘くさいとは思えなかった。単純すぎるかもしれないけど。私には、どれだけ腹が立ったとしても、この子があんなひどい言葉を先生に言うなんてどうもおかしいと、不審に思っていたから。 「ちょっと、奈々ちゃんそんな深刻な顔しないでよー。コピーの話は本当の話だけど、ちゃんと消せたし。もうコピーは二度とつくらないかな」  ソースの濃い匂いがただようハンバーグ定食を食べながら、彼女は明るく笑って答えてみせる。 「そっか……まあ、それならいいんだけど」  ホッとはしたけど、ただ、ほんの少しの違和感は残った。  私が知っているこの子は、昔から控えめで優しい。そんな子が、コピーとはいえ人間の姿をしているものを本当にためらいもなく殺せるものだろうか。何なら、コピーから返り討ちに遭いそうな子なのに。  というか、水たまりからの底の世界からやって来るコピーの正体が何なのか、そもそも本当の話なのか、それもおぼろげだ。  もやついた気分でエビフライ定食を食べていたが、あるものを見て、さらに違和感を覚えた。  目の前の彼女の、左の目元。そこに、ほくろがあった。  その位置が、どうも前と違っているような気がして……。  ……でも、気のせいだと思うことにした。この子がコピーだなんて、気のせいだと思いたかったから。モヤモヤした何とも形容できない自分の気持ちにも、思い返してみれば小学校の途中から、引っ込み思案だったはずのこの子が少しだけ活発で気の強い性格になったような気がすることにも、なにも気づいていないふりをして、私はタルタルソースのかかったエビフライを食べる。  消されたのがコピーじゃなくて、本物だったりしたら怖いから。  ……絶対ありえないと思うけど、もし消されたのが本物だったとしたらなぜコピーは「本物のほう」を消したのだろう。 ――『ずるいよね、あなたって』 ――『友達がいて、毎日学校で楽しく過ごせて』 ――『あなたがちょっとくらい困ればいいなと思ったの。羨ましかったから』  たしか、コピーはそう口にしていたと聞いた。コピーの世界は、そんなに退屈なところなのだろうか。自分とは違って、楽しそうな生活を送っているのが羨ましかったから、コピーは本物を消して自分が本物になろうと考えたのだろうか……。  ふと、窓の外を見ると、アスファルトには水たまりが残っていて、何となく私は目をそらした。
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