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彼女の顔は、出会った時からずっとぼやけていた。僕の視力が悪いわけじゃない。彼女の顔は誰から見てもぼやけているのだ。彼女自身も自分の顔がどんなか知らない。分かるのは顔の輪郭くらいで、目や鼻、口の位置は手に触れた感触でしか分からない。鏡にもはっきり映らないのだ。だからもちろん、彼女がどんな表情をしているのかも分からない。でも、彼女のことが好きだった。声から伝わる凛とした明るさや、ふとした時の指の仕草、ふんわりと巻いたくせっ毛、思いやりのある優しい性格。高校の時から、そんな彼女に片思いしていた。偶然同じ大学に進学したのをきっかけに友達になることができた。そして、勇気をふりしぼって告白して、運良く僕は彼女の恋人になった。僕は彼女を好きになればなる程、彼女の顔をどうしても知りたくなった。でも、ぼやけた顔は拭っても、つついても、引っ張っても、クリアになることはなかった。僕は謎めいた顔の彼女をますます好きになるばかりだった。
ある日のこと。彼女と喫茶店で待ち合わせをしていた。席につくと、店員がテーブルに水の入ったコップを2つ置く。店員は彼女の顔を見ると不思議そうにして自分の目を擦った。そういう反応には僕も彼女も慣れきっていて、なんとも思わなかった。ふうと息を吐いて、僕はなんとなくコップを覗いた。コップの水面にはチラリと僕の顔が映った。それでひらめいた。僕は期待に胸を膨らませて彼女の隣に座った。そして手に持つコップをそっと覗く。彼女の目がそこにあった。僕は慌てて彼女の手を引いて外に連れ出した。
雨降りの後だった。濡れた地面、足元に広がる水たまり。曇り空から日が射してきらめく。僕と彼女は同時に笑った。彼女も気づいたのだ。水たまりに自分の顔が映っていることに。水面越しに見える彼女はとびきりの笑顔だった。やっと彼女の顔をはっきりと見れたのだ。2人で水たまりのそばにしゃがんでまじまじと水面を見つめる。
「これが私なんだ」
彼女はそう言って水たまりを人差し指でそっと触れた。広がる波紋が落ち着くと、彼女の泣き顔がそこにあった。「私の顔が、自分が分かるって、こんなに嬉しいんだね」僕は彼女のぼやけた顔を見上げて背中を撫でた。すると彼女はやってみたい事があると言って、鞄からお気に入りの口紅を取り出した。今まで顔がどんなか分からなかったから、彼女はメイクをしたことがない。でも乙女心に口紅だけは持ち歩いていた。水たまりで口を確認しながら、唇の感触も頼りに塗っていく。赤が唇に色づいた。水溜りに赤い花が咲いたみたいだった。
僕たちは時間を忘れて、子供のようにはしゃいだ。水溜りをのぞいてお互いの目を見ながら会話する楽しさ。彼女は笑ったり、わざと不貞腐れてみたり、あひる口をしてみたり、いろんな表情を見せてくれた。すると、晴天にもかかわらず、また小粒の雨が降り出し、次第に土砂降りになった。天気雨だ。傘を持たない僕たちは急いで喫茶店へと走り出した。
天気雨に降られて頭からびしょ濡れになってしまった。彼女の顔にも雨が滴ると、まるで水に絵の具が滲むようにじわじわと眉や目、鼻、口がはっきりと見えるようになった。「今も顔が見えるよ。わかるよ、はっきりと」そう言って僕は彼女を道端にあるカーブミラー前に連れて行った。彼女はミラーを見上げてわあ、と声をあげた。
僕たちは喫茶店に入り、濡れた顔や体をタオルで拭いた。それでも彼女の顔はもうぼやけることは無かった。それを伝えると、彼女は急に恥ずかしがって、化粧室で赤い口紅を塗り直してきた。注文を取りに店員がやってくる。店員は彼女の顔を見て、また自分の目を擦った。
僕たちは顔を見合わせて笑った。ずっとこうしていたいと思った。
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