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「……お、お腹空いた」
腹の虫がねじれてよじれて唸り声を上げる。でも、わたしはそれを生唾を飲み込んで耐える。
わたしの目の前にはステーキやお寿司、高級フルーツなどのそれはそれはおいしそうな食べ物がずらりと並べられていた。
目をつぶっても、香りが鼻孔をくすぐる。鼻をふさいでも、じゅうじゅうといった美味しい音が、耳を通り、直接脳内へと入り込んでくる。
でも、わたしはそれを食べることができない。地獄だ。
「空腹チャレンジ、もうすぐ決着か!」
司会者である女性アナウンサーの声が会場に響き渡った。
わたしは食べ物からなんとか目をそらし、隣にいる女性に視線を向ける。
年齢は二十五歳だそうだ。わたしはもう少し年上だが、そんなわたしよりもはるかに年上に見えた。四十歳と言われても驚かない。
今、わたしはこの女性と空腹チャレンジに挑戦している。
ルールは簡単で、空腹に長い時間耐えた方が勝ち、というものだ。勝者にはなんと、一億円もの賞金が贈呈される。
このチャレンジはネットでリアルタイムで配信されている。視聴者数はうなぎ登りで、サッカー日本代表戦と同じぐらいの視聴者数になっているらしい。こちらにモニターなどはないので、確認はできないけれど。
金に目がくらんだ者たちが多数挑戦したが、運営サイドの度重なる妨害により、数を減らし、今やわたしと目の前の女性だけになっていた。
二人とも極限状態だった。けれど、ここまでの死闘のせいか、妙な親近感も沸いていた。
「あの……」
わたしは女性に話しかけていた。禁止行為ではないが、話すとエネルギーを消費するので極力避けていた。
「……何でしょうか?」
女性がわたしの顔を見……ているのか?
焦点が少しずれている感じがあった。限界が近いのかもしれない。
「あなたがこのチャレンジを頑張る理由って何ですか?」
わたしは気になっていた。彼女が頑張り続ける理由を。ただお金が欲しいだけとは到底思えなかった。ずっと一緒にいて、悲壮な覚悟を抱いている印象がどうしても拭えなかった。
「……命が、命がかかっているんです」
「……命?」
「はい、わたしの娘の命がかかっているんです」
「……どういうことですか?」
女性は、視線を床へと向けた。そして、今にも泣き出しそうな表情になった。
「わたしの娘は重い心臓病にかかっていまして。日本での手術が難しく、アメリカに行く必要があるんです。でも、そのための資金が足りないんです。だから、わたしは娘の命を守るために、このチャレンジに勝たないといけないんです」
焦点がずれ、疲労感が否めない女性の瞳。その最奥にある炎は、揺らぎながらも、煌々と輝いているのを感じた。
「わたしの全てを賭けて、この戦いに勝たないといけないんです」
女性がわたしに双眸を向ける。
「そんなあなたはどんな理由で、このチャレンジに挑んでいるんですか?」
女性の瞳は雄弁に語っていた。ろくでもない理由だったら、さっさとリタイヤしろ、と。
でも、わたしも譲る気なんてさらさらない。たとえ、相手が娘の命を守るためだとしても。
「わたしは、世界の飢えを無くしたいと思っています。これはそのための資金です。ごはんを食べられない人たちに、ごはんを食べることができる環境を整えたい。多くの人の命を救いたいんです!」
わたしも女性に負けない熱量の炎を、瞳の奥に灯す。
「……なるほど。わかりました。互いに譲れないものがある、ということですね」
「あなたの置かれた状況には同情します。ですが、譲れません」
女性は、一つ大きく息を吐いた。座っているだけなのに、体がふらついている。もう限界なんて、とうに超えているのだろう。
それでも、この女性は絶対にギブアップはしない。
……いや、できない、といった方が正しいのだろう。それをしてしまったら、娘の命を見捨てるのと同義になってしまうから。
このチャレンジが終わるとしたら、わたしがギブアップするか、相手の女性が倒れるかしかない。
でも、わたしにはギブアップするつもりはない。わたしだって、このチャレンジに人生をかけている。
一億円ものお金が手に入ったら、どれほどの人を助けられるだろうか。
わたしは大学の夏休みを利用して、世界をほつき歩いていた。特に大義名分があったわけではなく、就職のときに、少しでも有利になるように、と考えての行動だ。
でも、結果として、それがわたしの人生に大きな影響を与えた。
世界をほつき歩いた結果、世界は空腹だということに気が付かされた。
日本では、多くの人が食事に困ることはない。一歩外に出れば、コンビニやスーパー、レストラン、自動販売機など、食べ物で溢れている。
けれど、世界はそうではなかった。食べ物を手に入れるのさえ、困難な国も少なくなかった。
わたしは何となくで始めた旅で、これを何とかしたい、しなければならない、との使命感を覚えた。
だから、わたしは帰国して、金策に走った。自分なりに資料を作り、色々なところに融資を求めて交渉して回った。お金がなければ、食べ物がなければ、目的を果たすことができないから。
けれど、何の実績のないわたしに、誰も取り合ってくれなかった。詐欺だと思われ、糾弾されたことも、両手では数えきれないほどある。
それでも諦められなかった。諦めたくなかった。助けられる命を見捨てるなんて、わたしにはできなかった。
だから、とにかくお金が欲しかった。困っている人を助けるためのお金が必要だった。
そんな時に見つけたのがこのチャレンジだった。
わたしはこの戦いに勝たなければいけない。世界の空腹を満たすために!
二人の我慢比べはいよいよ終わりを告げようとしていた。
もう、相手の女性が限界なのは明らかだった。焦点が定まっておらず、体は大きくふらつき、息も絶え絶えだ。意識があるのが、不思議なぐらいだ。
でも、さすに、これ以上は、この女性の命に関わりかねない。
わたしはスタッフを呼ぼうと、スタッフに手を上げて知らせようとする。
しかし、わたしの袖をつかみ、女性が止めてきた。満身創痍。この女性の体は脱力状態だった。正直、座っているのも信じられないぐらいだ。
それなのに、わたしをつかんでいる手の力だけは、強かった。
でも……。
わたしにはその手を振り払うことはできなかった。だけど、もう、止めるべきだと判断した。
娘の命を守るために、この女性が命を落とすようなことがあってはいけないから。
しかし、わたしが意思表示をするよりも先に、スタッフが駆け寄ってきていた。定時で健康状態を見ることになっている医師も一緒についてきている。
「……ダメ、来ないで。来ないで。来ないで。お願いだから」
拒絶の声は届かない。蚊の羽音よりも小さな声だったから。
スタッフは女性の体を受け止め、横にし、そのまま寝かせた。女性は抵抗する素振りを見せていたが、もうその力すら残っていなかった。
医師は彼女を見るなり、首を横に振った。
続行不可能。ドクターストップだった。
刹那、女性は、両手で顔を覆った。
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめんなさいッ!」
その懺悔は、娘に向けたものだろう。その悲痛な叫びに、スタッフも、医師も、わたしも、何も言えなかった。
奥にいるスタッフも硬直している。パーティーを始めるような恰好をしながら。本当だったら、ここで大騒ぎをしながら、勝者を褒めたたえていたのだろう。その準備なのだろう。
でも、到底、祝う気になんてなれない。死闘の果てに待っていた敗北。しかも、娘の命がかかった戦いでの、敗北。
それはただの敗北じゃない。絶望だ。
「……ねえ」
女性の言葉がわたしに向けられたものだと、すぐに気が付いた。女性の口がうっすらと開く。
刹那に頭を過ったのは、わたしは、拒めるだろうか、ということだった。もしもこの女性が、賞金を譲ってくれないかと言われた時に、拒めるか、ということだった。
自分の頭が答えを出すために、必死で動いているのがわかる。けれど、答えなんて出そうもなかった。
でも、女性の発した言葉は、違った。
「そのお金でたくさんの人を救って。そうすれば、わたしは娘に自慢できるから。世界の人々を救った英雄とわたしは戦ったんだよって。最後の最後まで戦ったんだよって」
女性は少しだけ笑みをこぼした。
「あなたの力で、わたしのような、絶望に打ちひしがれる人を少しでも減らして。この世界に絶望なんていらない。必要なのは希望だから、あなたがこの世界を明るく照らし出す希望になって」
女性はそれだけ言い終わると、両腕を左右に散らした。どうやら、意識を失ってしまったらしい。
「……はい、絶対に希望になってみせます」
わたしは運ばれていく女性を見ながら、小さく、だけどはっきりと宣言をした。
しかし、話はそれで終わらなかった。
司会者の女性アナウンサーが、わたしの隣に立った。進行をするためだろう。
でも、進行は全く始まらなかった。なぜなら、女性アナウンサーが号泣をしていて、言葉を発するどころではなかったからだ。
それを見かねた、見学に来ていた女性アナウンサーが代役を買って出た。進行がようやく再開される。最も、この女性アナウンサーも目を赤く腫らし、涙を必死に我慢していた。
この涙の理由は、先ほどの顛末を見たからだろう。
そう思った。
だけど、それだけじゃなかった。
女性アナウンサーがカメラの前に立ち、発した言葉の数々に、わたしは驚愕した。
「わたしは実感しました。この世界は希望で満ちていると。まさか、このような番組で、こんなことが起こるなんて、想像もしていませんでした」
女性アナウンサーがわたしにスタッフの方を見るように促した。そこにはスケッチブックを持ったスタッフがいた。
そして、そのスケッチブックを見て、わたしは膝から崩れ落ちた。
「あの方の娘さんへの募金額が3億円集まっています。世界中から」
賞金をはるかに超える額が、寄付されていた。それも世界中から。
番組を見ていて、居ても立ってもいられない人たちの力が結集した。一人一人の額はきっとそんなの大きくない。でも、その小さな額が集まり、とんでもない金額となった。
あの女性の頑張りに、本気で命をかけて戦っている姿に、娘を何とか助けたいと願う気持ちに、誰もが心を打たれ、少しでも力になりたいと集まってくれたんだ。
「わたしたちは募金を呼び掛けていません。番組を見ていた方々が、自然と、募金を始め、それが日本の、いえ、世界のうねりとなり、気が付けばとんでもない額になっていました!」
女性アナウンサーがカメラに向かって叫ぶ。
「この世界は希望に満ちています! その希望は、誰でもない、あなた方一人一人なのです! たしかに一人の力は非力かもしれない。だけど、だけど! その力が結集すれば、大きな力となるのです!」
わたしは顔を押さえて泣いていた。もう、立てない。力が入らない。空腹だからじゃない! 胸がいっぱいすぎるからだ!
そんなわたしに、女性アナウンサーが肩を軽く叩いた。もう一度、スタッフ見るように促したのだ。
そして、スタッフの方持っていたスケッチブックを読んだわたしは、床に伏すようにして泣いた。
「あなたへの募金も2億円集まっています。あとスポンサーになりたいとの問い合わせも多数入っています」
わたしは泣く以外に何もできなくなっていた。熱い、熱い、熱い、胸が焦がれる程に、熱すぎる!
その後のことを、わたしはまるで覚えていない。どのように番組が終わったか、どのようにして家に帰ったのかすら覚えていない。
ただ一つ覚えていることは、胸がいっぱいだったことだけだ。
――数年後。
わたしは数年前まで飢餓に苦しんでいた国にいた。この国の飢餓をわたしが救った、なんてことはないけれど、その一助にはなれたと思っている。
笑顔でわたしに群がって来る子供たちに対応をしていると、わたしのスマホが着信を告げた。
子供たちに軽く断りを入れ、スマホを操作する。
「あ、今日はきちんと出てくれた! 偉い偉い!」
「ごめんね。今、大丈夫かしら?」
スマホに映し出されたのは、元気いっぱいな女の子とそのお母さんだった。
「ひと段落して、休憩していたところなので大丈夫です。今日も元気いっぱいだね!」
「もちろん! だって、みんなからもらった元気を分けるのがわたしの使命だからね!」
歯をむき出しにして、女の子はシシシと笑う。本当に元気そうで何よりだ。
小さい頃、心臓の手術を、遠いアメリカの国で受けた女の子とは思えない程に。
わたしは、しばらく話をした後で、通話を切った。
「さて、もう少し頑張りますか!」
この世界は希望に満ちている。けれど、絶望もまた存在しているのは事実だ。
わたしは自分の力で世界から飢餓という絶望を減らす。絶望が減れば希望が生まれ、その希望が新たな希望へとつながっていく。
そのために、今日も動く。
~FIN~
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