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髭のそり残しもなく、ネクタイも曲がっていない。
「よし」
鏡の中には今日から社会人になる俺の姿があった。
腕時計を見ると、出勤まであと15分。
最後の儀式の時間は十分にある。
「……なぁオレ」
俺は鏡の中のオレをじっと見つめた。
すると、鏡の中のオレが不敵に笑った。
「なんだ改まって? 結婚の報告か?」
いつものように茶化してくるオレにとりあわず、俺は続けた。
「今日は大事な話があるんだ」
「なるほど、ガチ話か……OKブラザー聞いてやるよ」
尊大な口調で腕を組むオレに、俺の頬が綻ぶ。
「思えば俺達の付き合いは長いようで短かったよな」
「ああ、そうだなブラザー。せっかく面接の練習に付き合ってやってもお前は面接の度にドもって、頭が真っ白になって……何社も何社も落とされてその度に慰めなきゃいけなくて世話の焼ける野郎だったぜほんと」
鏡の向こうのオレはやれやれと首をすくめる。
「その節はすまん……でも、それももう終わったよ」
「ああ、知ってるぜブラザー。就職おめでとう」
鏡の中のオレはパチパチと拍手する。
「…………」
「嬉しくないのか?」
「いや、嬉しいんだ。すげえ嬉しい……でも今日から会社で」
自然にうつむきがちになってしまう。
今、俺はオレの目をまともに見れない。
「はは、わかってるってブラザー。消えろってことだろ? 鏡の中の自分と会話してるところを誰かに見られたら大変だもんな」
「い、いや、そんな消えろとか強い言葉を使うつもりは……」
顔を上げて弁明すると、鏡の中のオレは悪戯に笑っていた。
「いいっていいって、オレはお前だから気持ちは全部わかる。遠慮すんな。ほら、グータッチ、イエーイ!」
オレは鏡に拳を突き出してきた。
俺はためらいがちに拳を鏡に向かって突き出す。
「えっと……」
「こういう時は謝罪よりも感謝の言葉だぜ?」
先回りしてオレが忠告する。
俺は深呼吸をして、相変わらず笑顔なオレの目をまっすぐ見た。
「……ありがとなオレ」
「もうオレがいなくても大丈夫だよなブラザー?」
食い気味な問いに一瞬固まってしまうが、俺は力強く頷けた。
「少し寂しいけどな」
「へへ、強くなりやがったな俺」
拳を下ろすと、鏡の中のオレは鼻頭をこすって俺をじっと見つめた。
「あばよブラザー。仕事頑張れよ」
「ああ、頑張るよ」
そうして一度目を閉じて、もう一度鏡を見るとそこには不安そうな表情の俺がいた。
「なぁ……」
鏡の中へと話しかけて、止める。
オレはもういない。
俺自身が一番わかっていることだ。
「……大丈夫さ、アイツならきっとそう言ってくれる」
しんみりと腕時計に視線を落とせば、出勤時間だった。
「大丈夫じゃないぞ!?」
俺は急いで家を出た。
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