嫉妬と怒りと淡い恋

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 桜咲く……。満開に咲く。ここは東京都千代田区の千鳥ヶ淵緑道、花見をしている人々が大勢行き来していた。そんな華やかな片隅で二人の女性が対峙している。  「止めて下さい、もしソレを使ったらあなただって、やり直しが出来なくなってしまうんですよ」  「うるさいわね! あなたなんなの! なんで、そんなことを言うのよ!」  右側にいる女は手に何やら黒いカプセルを握りしめていた。  フードのついた黒いオーバーに白いセーターとズボン、ちょっと目では男か女かわからないような姿をしている。  左側にいる女は白いインナーに赤い上着を着ていた。  「知っていますよ、あなたのその手にあるのはN121ですよね!」  それを聞いて右側の女を身を震わせた。  N121は通称penaといい、ポルトガル語では慈悲、または残念、または刑罰の意味がある。ブラジルで発見された一種の植物性プランクトンで、ガラスの殻に身を包んだ珪藻(けいそう)類の新種だ。顕微鏡で見れば、桃色の桜のような形をして美しいのだが、光合成ではなく水の養分を吸収して繁殖する、珍しい食虫植物的な特徴を備えており、もし、これが人の体内に入れば、血液の栄養を糧に血管内で繁殖をはじめ、最終的には手足の指から壊死が始まり、心臓が停止する恐ろしいもの――毛細血管にガラスの粒子が詰まって血栓になるので、体のあちこちで壊死が始まり、その姿は斑犬の様になってしまう。  治療法はまだなく、一度体内に入れば、死を待つしかない。  東都大学生物学科の教授の助手、飯島里紗(いいじまりさ)はこれを密かに培養して、元恋人の岸本正義(きしもとまさよし)を道ずれに無理心中を計画していた。彼女からすれば、岸本はギャンブル好きで金遣いが荒いのが、白馬の王子様で、容貌も地味な飯島とは不釣り合いなほど容姿に恵まれ、テニス部のエース、満足できる彼氏だった。なのに唐突に別れ話を切り出された――。  噂では年下の大学二年生の娘と同棲を始めたというではないか。これを友人から知らされた時、彼女は嫉妬と屈辱でめまいがしそうだった。  (許せない!)  そう思った。  研究室から盗んだpenaは注射器に入れてカプセルケースに納めている。あとは隙を見て睡眠薬で眠らせて注射するだけでいい。  なのに、なぜかこの見知らぬ女は計画のすべてを知っていて、止めるのだ。  「止めて下さい! 飯島さん! こんなことをしても虚しいだけじゃないですか!」  一瞬だが飯島の心は揺らいだ。  謎の女が似ているのだ。二年前に事故死した妹に……。まるであの世から止めているように彼女には思えた。  彼女は叫んだ。  「なんだよ、お前、なんだって邪魔するんだよぉ!」  そう脅す気だったが、思いがけず喉がかすれて、まるで子供がすねた様にしか声が出せない。それに瞳が濡れる。  冷静になってみると、今の自分がとてつもなく惨めに思えて仕方ない。  (ろくでもない男に振り回されて残りの人生を捨ててしまうなんて、バカだよ! ああちくちょう! 見ず知らずの女の前で泣き出すなんてしたくない! 悔しすぎる! やだ、なんで涙が出るのよ!)  涙を拭こうとした時、いきなり後頭部に衝撃が走り、彼女は意識を失った。  二見恵子がこっそり後ろから近づいて、後頭部を蹴りあげたのだ。  女装したゴンタロウはこの乱暴な解決法に、いささか面食らって、「なんで途中で説得を断念したんですか?」と、訊くと景子から、さらに乱暴な答えが返ってきた。  「こんなゴチャゴチャしたのは好きでないの」  これに驚いたゴンタロウは「あなたは野蛮人ですか?」と、抗議の声をあげたが、彼女は少しも意に返さなかった。  ゴンタロウはアンドロイドで性別はなく、いつもは青年の姿でいるが、景子の父、恵介の頼みで今回は女性の姿に変装していた。  戦闘用アンドロイドだがロボット三原則を厳守する様にインプットされており単独では犯罪者とは戦えない。しかし彼の場合、パワードスーツとしての機能もあり、中の操縦者をサポートする形なら犯罪者と戦えるのだ。その操縦者こそ高校二年になる二見恵子だった。  景子は空手の地区大会三位の実力の持ち主で、時間を二十四時間だけ巻き戻す超能力者。たびたび自衛隊の特殊部隊に勤務する父の二見恵介から危ないアルバイトを請け負っている。  「これから委員長たちと花見するんだよね、高校生は大人の恋愛に胸焼けしている暇ないの」  そう言いながら昏倒した飯島からケースを奪うと、注射器を出した。  「ゴンタロウ知ってた? この中身、25度以下の水の中だと死んじゃうんだって、人間の体温は26度5分くらいだから適温なわけよ」  ゴンタロウが「どうするんですか? 今度のことはまだ、この時間のお父様にはお話をしていないんでしょう?」と、訊けば、「こうする」と、言うが早いか景子はシリンダーを押して、注射器の中身を地面に流した。  「あっ!」  驚くゴンタロウを尻目に「へへへ、今日の気温は19度、しかも出されたのは地べた。一発で凍え死ぬわね」  そう言いながら、文句なんか言わせないと、むくれ顔で景子はゴンタロウを睨んだ。  「いいじゃん、警察に突き出す必要ないじゃんか、だいたい依頼人のお父さんだって、まだ知らないんだよ、総理の息子だってピンピンしてるし……まだ何も起きてないんだし、問題ないって」  「しかし、また別の手口で狙う可能性があります」  「そんときゃ、また時間を巻き戻して、お父さんの言う通り警察に突き出すわよ。大丈夫、勘でわかるのよ、この人はそんなにイカれちゃいない。一晩で冷静になってやり直せる人よ」  と、景子を自分の鼻の下を人差し指でこすった。  今度の事件は総理大臣のバカ息子が、一人の女性の青春を食いつぶした――そんな出来事が発端だった。事件をもみ消したらバイト料は発生しないが、それで景子は満足だった。  景子は「あんなの泥にでも捨てちゃいな」そう、呟きながら、道端に大の字になった飯島から離れた。  なにも知らない通行人からすれば、酒に酔った女が寝転がっているように見えるだろう。  女装したゴンタロウは、この処置にいささか不満だった。  景子の提案で、飯島の妹に偶然にもゴンタロウが似ているからと女装したのだが、これでは恥を忍んだ意味がない。彼は自首を勧める気でいたのだ。  (大学から危険物を盗んで培養した罪もあるのに……。ちゃんと反省させないと駄目じゃないのか?)  納得できず、首をひねるゴンタロウだった。  だが、それは杞憂だった。  暫くして、飯島に声をかける男性がいた。  細い目で、決してハンサムではなかったが、誠実そうなサラリーマンだ。  「あのう、大丈夫ですか? 気分でも悪いんですか?」  彼女は目を覚ました。  縁とはわからないものだ。これがきっかけで半年後に飯島は彼と挙式をあげることになる。                              了          
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