壊れる

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壊れる

 六花のお母さんは、前触れもなくいきなり死んだ。買い物帰りに横断歩道を渡っていたら、左折してきたトラックが突っ込んできた。トラックは曲がるくせにスピードも落としておらず、前もろくに見ていなかった。即死。百パーセント、相手が悪い。  知らせを聞いた六花と父ちゃんが病院に駆けつけると、お母さんはすでに霊安室にいた。 「念のため、本人確認してください。」  と言われて、手を震わせていた父ちゃんが立ち上がる。六花も続こうとしたら 「ご遺体の損傷が激しいから、あなたは見ないほうがいいと思う。」  と看護師さんに言われた。父ちゃんひとり、おそるおそる部屋に入っていく。随分長い時間に感じた。再び出てきた父ちゃんの顔には、表情がなかった。  父ちゃんはそれからおかしくなってしまった。あんまり頼りにならないので、六花は大阪の叔母さんを呼んだ。お母さんの姉に当たるひとだ。そのひとがいろいろ手配してくれたから、お通夜も葬式もあげられた。一応、喪主は父ちゃんなので、お通夜で挨拶するのだが、マイクの前で長いこと唇を震わせた挙句、突然、大声で泣き出した。マイクを通した父ちゃんの泣き声が、会場中に大音量で響き渡る。それを見て、弔問客たちも涙を流した。  六花は泣かなかった。泣けなかった。遺体を見なかったから、実感が湧かなかった。悪い夢のなかにずっといるような、そんな感じだった。  父ちゃんは、お母さんの写真を見たくないと言って、遺影を選ばなかった。代わりに、六花が幼稚園のときに描いた「お母さんの絵」を遺影にするんだと言い張って、譲らなかった。だから、黒い額縁に黒いリボンを掛けて飾られているのは、六花の描いたすっごく拙いクレヨン画なのだ。父ちゃんは、この絵の母ちゃんが一番美人なんだ、と言ったが、六花は、こんな下手くそな絵をみんなが見るのは恥ずかしいな、と思った。壊れてしまったお母さんを見た、父ちゃんのこころの傷が相当深いことがわかって、六花はしっかりしなきゃ、と自分に言い聞かせた。  お通夜の食事の席でも、父ちゃんは、挨拶回りは叔母さんに任せて、端っこでずっと飲んでいた。と言っても、父ちゃんはそもそも下戸なので、飲んでいるのはオレンジジュースだ。確実にオレンジジュースなのは間違いないのに、父ちゃんは次第に酔っぱらったようになって、船をこぎ始め、最終的にはみんなに肩を支えられながら、家に帰った。六花は、一時にあんなに何本もオレンジジュースを飲むひと、初めて見た、と思っていた。 翌日の葬式で、遺体を焼くときには、突然飛び出して扉を開けようとして、周りの大人数人に引きずられて、引きはがされていた。父ちゃんはすっかり壊れてしまった。
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