歩み出す

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歩み出す

突然、世界が有彩色に変わったように感じた。犬を連れていたのは、年配の女の人だった。六花が憧れの眼差しで、ぼーっと見つめている間にも、ひとりと一匹は、どんどん遠くに行ってしまう。六花はほとんど無意識に、ふたりのあとについて行った。  犬と飼い主にだいぶ追いついたとき、六花は、はっと我に返った。この道は、商店街に続く道だ。アーケードの手前に横断歩道がある。お母さんが事故に遭った、あの横断歩道だ。六花の足は、一瞬止まりかける。でも意を決して、再び犬と飼い主の後を追った。いつまでも逃げているわけにはいかないのだ。  横断歩道を渡る。向こう側、ちょうどアーケードの手前が、事故現場であるはずだった。渡り切ったその先で、六花は犬のことも忘れて立ちすくんでしまった。歩道の内側に、花が供えられていたのだ。白に、ほんの数本黄色の混じった菊の花束。  誰が供えてくれたのだろう。献花はまだ新しかった。父ちゃんがやったとは考えにくかった。なにしろずっとあの調子なのだ。近所のひと? 友達のお母さん? 先生?  「加害者家族」……。思い至って、六花は心臓がすうっと冷たくなっていく感覚を味わった。間違いない。加害者家族のだれかに違いない。  裁判事の一切は、叔母さんが引き受けてくれているので、六花はそのひとのことを、その家族のことも知らない。ひとを事故で殺してしまったら、そのあとどうなるのかも、よくわかっていない。けれど。  六花は無意識に、菊の花束を掴むと振り上げていた。自分がものすごく恐い顔をしているのが、見ないでもわかった。こんな、これっぽっちのことで、罪が許されると思うのか! いくら毎日献花しようと、いくらたくさんのお金をもらったところで、お母さんは二度と帰ってこない! どれだけのことをしてもらおうと、絶対に絶対に許さない!  その瞬間に、六花の胸がちくりと痛んだ。ひとを傷つけてしまったこと、泣かせてしまったこと、惨い言葉で絶縁してしまったこと。六花にだって経験がないわけではなかった。やらかしてしまったことの、罪の意識と苦しみを、取り返しのつかない哀しみを、子供ながらにも知っている。殺すつもりもなくひとを殺めてしまったひととその家族の、絶望と苦しみは計りようがない。 きっと縋るような思いで、祈るような思いで、六花や父ちゃんが知らぬ間にも、毎日花を供え続けている誰かのことを、慮らないわけにはいかなかった。六花は振り上げた手を下ろし、菊の花を元通りに供えなおした。ごめんね、お母さん。私には、復讐なんてできそうにないよ。  六花は手を合わせ、深々と頭を下げた。そして商店街のアーケードに向かう。三本足の犬はとうにどこかに行ってしまっていたけど、六花は気にしなかった。
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