少女と『シンギュラリティ』①

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少女と『シンギュラリティ』①

 「あっ、ハルカちゃーん。おはよー。」 「ええ、キョウカちゃん。おはよう。」 小学校に入学からはや3週間。私には、友人と呼んで差し支えない人物が何人かできた。そのうちの1人が、キョウカである。ここ数日は、通学中の私の前にキョウカがひょこっと現れ、そのまま談笑しながら一緒に学校へ向かうのがお決まりになっている。  「そういえばさー。ハルカちゃんは『シンギュラリティ』ランドセルに入れないの?」 キョウカが純粋そうな眼差しをこちらに向けながら言った。 「入れない。本と筆箱でいっぱいだし。」 本当は未だ『シンギュラリティ』をランドセルに入れるのに抵抗があるだけだが、なんとなく、そのことをキョウカに知られるのが嫌なので適当に誤魔化した。 「へー。そういえばハルカちゃんって『シンギュラリティ』に名前つけたりもしないよね。」 「名前なんかつけても呼ぶ機会ないでしょ。いい名前も思いつかないし。」 驚いたことに、私の周りの小学生の多くは『シンギュラリティ』にわざわざオリジナルの名前をつけているらしい。つまり、本気で『シンギュラリティ』をパートナーか何かだと思っているわけだ。「えー。名前がついてた方が可愛いじゃん?いつも一緒にいるわけだし。」 「別に。私はつけないかな。」 キョウカは『シンギュラリティ』に対して随分と肯定的な様子で、学校でもいつも『ポワちゃん』と呼んで可愛がっている。私からしてみれば、どうしてこの緑色のスライムにそこまでの愛着を持てるのか、甚だ疑問である。  しばらく歩いて、学校に到着した。下駄箱で靴を履き替え、教室に向かう。ゆっくりおしゃべりしていたせいで、結構ギリギリの時間になってしまった。教室に入り、自分の机に『シンギュラリティ』を置いて、着席する。時計に目をやると、朝のHRまであと3分のところだった。キョウカは呑気な顔で 「あとちょっとで遅刻だったねー。」と笑っている。  8時30分、HRの始まりのチャイムが鳴ると同時に、先生が教室に入ってきた。 「えー。朝のHRを始めます。皆さん『シンギュラリティ』を机の上に出してください。明日は皆さんにとって、最初の研究発表会です。したがって、今日はその最終確認を行ってください。特に、資料の引用元についての記載や、情報の信憑性についての見解を忘れないように。皆さんの発表を楽しみにしています。それでは、11時30分まで個人で作業を進めてください。」 先生の話が終わったので、私は『シンギュラリティ』に向かって、 「研究の続き。」 と呟いた。すると『シンギュラリティ』はわずかに光った後、私の脳への本格的なアクセスを始めた。  『シンギュラリティ』は、膨大な量のデータを管理し、それを私たち人間の脳に出し入れしてくれる。これにより、人間の処理能力は飛躍的に上昇した。記憶も、演算も、情報の整理も、『シンギュラリティ』が請け負ってくれる。脳が複数個あるような状態といってもいい。これまでの学校教育のような、いわゆる学問的な学習に必要な時間は大幅に短縮され、それら知識を活用した研究が学校での時間の大半を占めるようになった。『シンギュラリティ』が私たちの脳にアクセスするとき、一瞬だけ、私たちの脳裏を膨大な量のデータが駆け巡る。それから徐々にデータが整理整頓され、重要な部分だけがくっきりと残り、その他はぼやけていく。初めは、『シンギュラリティ』に脳を好き勝手されているようで、すごく気持ち悪かったけれど、最近はもう気にならなくなりつつある。私は『シンギュラリティ』が選んだデータを閲覧しながら、脳内に用意されたタブにメモを走らせる。今日は先生のいった通り、研究発表の前の最終確認を行った。私の研究内容は、色が人間の脳に与える影響についてだ。あのとき、迷わず赤いランドセルを選んだ私は何を思っていたのか。別にその事自体に興味があるわけではないが、データを活用すれば、自分の行動すらも客観視することができる。しかし、こうして客観視してみると、今の私の振る舞いは小学生離れしているというか、古い子どものイメージとはかけ離れているように思える。それもこれも、『シンギュラリティ』のせいなのだが。  「疲れたねー。ハルカちゃん。」 「あら、お疲れ様。キョウカちゃん。」 HRが終わり、昼休みの時間が始まった途端、キョウカが眠たそうな声で話しかけてきた。 「キョウカちゃん、ここ最近毎日疲れたって言ってるじゃん。」 「私もそれ思った。ちゃんと寝てる?夜ふかししてるんじゃない?」 ミサキとヒカリがキョウカの肩に手をかけて笑う。2人は入学後すぐにキョウカと仲良くなったらしく、そのキョウカが私に話しかけるようになってからは、4人でよく集まっておしゃべりする仲になった。 「ちゃんと寝てるよー。たぶん私、皆みたいにお勉強するの得意じゃないかも。なんかポワちゃんにポワポワされると熱出ちゃって。」 ポワポワとはおそらく、『シンギュラリティ』が脳にアクセスすることを指しているのだろう。確かにあのデータの出し入れは脳に相応の負荷がかかっている気がする。いくら脳のキャパシティが拡張されているとはいえ、最終的に重要なデータを処理するのは自分の脳内なのだ。 「まあなんか、『シンギュラリティ』のおかげで従来の勉強は簡単になったらしいし?頑張るしかないっしょー。」 ミサキは『シンギュラリティ』に関して、ある程度前向きに受け入れている様子だ。 「私は普通に自分で一から勉強してみたかったけどー。周りが使っちゃってるもんは使わないと、流石にね?」 ヒカリは『シンギュラリティ』を用いた学習に不満があるらしいが、自分で折り合いをつけたらしい。確かに、現代においてシンギュラリティなしで周囲の学習ペースにおいつくのは不可能と言っていいだろう。現に私たちは今、従来の義務教育の範囲の7割程をすでに修了している。  「そういえばさ、先生ってHRや授業の間何してるんだろ?」 「あーそれ、私も気になってた。」 先生はいつも、教卓の上で小さな球体を転がしながら、何かを考えているような表情をしている。オレンジ色でテニスボールぐらいの大きさなので、まるで蜜柑のようだ。聞いたところによると、あの球体も『シンギュラリティ』も一種らしい。私は、どうして自分のは緑のスライムなのに、先生のは可愛い蜜柑なんだろうと考えたが、どうやら人間の脳が発達してそのキャパシティが向上すれば、あのサイズの『シンギュラリティ』でも十分にデータを管理しきれるらしい。要するに、私の脳が未発達であるが故に、この大きな『シンギュラリティ』が必要になっているということだ。言われてみれば、先生が『シンギュラリティ』を使って何をしているのか、私たちは知らない。教育学についての知見を深めているのだろうか。それとも、私たちと同じように任意の研究に取り組んでいるのだろうか。何にせよ、従来のタスクの大半を失った先生も大変だろうなと思う。  さて、午後のHRの時間はどうしたものか、正直もう研究は完了しているので、数学の勉強でも進めようかと思ったが、明日は脳内のメモ書きを見ながら口頭で発表する必要があるらしい。今のうちに音読の練習でもしておくのが懸命だろう。
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