後編

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 ぼくはその日ことを回想しつつ言った。 「狐の卵、すごく不味(まず)かった……」 「良薬(りょうやく)は口に(にが)しだから」  それを聞いて思いだした。あのとき姉はこんなことを言っていた。 「狐の卵には滋養強壮効果があるんだよ」  もし、狐の卵を食べたのが姉だったら、姉は今も生きていたのだろうか。 「あ、そうだ」と姉がぽんと手を打った。 「なに?」 「不味(まず)いで思いだした。ここにきた理由」 「なんだったの?」 「謝ろうと思って」 「謝る? ぼくにってこと?」 「そう。ごめんなさい」  姉はいきなりぼくに頭をさげた。 「え、なにが? 急に謝られても意味がわからないんだけど」 「わたしの誕生日にホットケーキを焼いてくれたでしょう。でも、美味(おい)しくないって言っちゃった。あれは失言でした。ごめんなさい」  姉は再び頭をさげた。 「ああ、それ。謝らなくていいよ。本当に焦げてて不味かったし。それよりぼくのほうこそごめんなさい。人造人間とか言って」  今度はぼくが頭をさげた。 「実は気になってたんだよね」と姉は続ける。 「言いたいことがあったら、すぐに言わないといけないね。人間、いつ死ぬかわからないもの」  ああ、すっきり。姉がそうつけ加えたとき、ぼくの腹がグウゥーと鳴った。  腹をさすりつつ言いわけをした。 「一昨日(おととい)からあまり食べてないんだ。姉ちゃんのせいで」 「わたしのせい? なんで?」 「親しい人が急に死んだからね。ショックで食欲がなくなった」 「ああ、なるほど。面目ないです」 「でも、姉ちゃんと話をしてたら、急にお腹が空いてきたよ」 「そう。いいね」 「うん」と頷いてから、ぼくは首を傾げた。 「いいね? どういうこと?」 「お腹が空いていいねってこと。死んだらお腹が空かないもの」 「死んだら空かないの?」 「空かないよ。お腹が空くのは生きている人だけ」 「へえ」 「だから、お腹が空くのはしあわせなことだよ。生きてる証拠だもん」  ぼくはもう一度腹をさすりつつ言った。 「そうか。空腹はしあわせなんだ」 「うん、すごくしあわせなこと。感謝しないと」 「死んだ姉ちゃんが言うと、なんだか説得力あるね」 「でしょう?」  姉は「ふふん」と自慢げに鼻を鳴らした。それから「さて」と言って立ちあがる。 「そろそろ帰る。じゃあね」 「え、なんで?」  ぼくは驚いて姉を見あげた。 「急すぎない?」 「だって、言いたいこと言ったし」 「そうか。言ったね……」  なんとなく納得させられてしまった。  でも、名残惜しくあるので訊いてみた。 「外まで送ろうか?」 「ダメダメ、死人についていったら。あの世までいっちゃうよ」 「あ、そうなんだ」  もう少し生きていたいので、見送りは辞退することにする。 「じゃあ、ごめんだけどここで」 「うん、ついてきちゃだめ」  姉はそれから葬儀場の外に向かって歩いていった。ぼくはその背中に尋ねた。 「また、こっちにくる?」 「さあ、わからない。死んだのはじめてだから」  姉が振り向いて答えたとき、無数の白い蝶が舞いあがった。同時に葬儀場に花の匂いが充満していく。姉は白い蝶が舞う中でぼくに手を振っている。彼女の声はここまで届かないが、口が、じゃあね、と動いている。やがて、無数の白い蝶は祭壇の菊の花に戻った。  どうやら姉はあの世に帰ったらしい。彼女の姿はもうどこにも認められなかった。
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