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――プロポーズの時に薔薇を持ってくる男は総じてダメよ。捨てなさい。
これは、お母さまの教えのひとつでした。
お母さまはこの話を週に一度は私にしたので、耳にタコができてしまいました。タコは私にいつでも、幻の声を聴かせてくれました。
――あの人を見ていれば、わかるでしょう?
あの人、というのは、お父さまのことです。
お母さまは、お父さまのことを心底嫌っている。
そのことは理解できましたが、それではなぜ婚姻関係を続けているのか、私にはわかりませんでした。
――どうして嫌いな人と居るの?
私はそう聞きたくて仕方がなかったのですが、これまでは必死に堪えていました。
けれど、今日はもう、我慢ならなかったのです。
幻の声とリアルな声が響き渡る脳みそが、悲鳴を上げました。
声を出せ、問いかけろ、と、口に命じました。
「どうしてお母さまは、嫌いな人と共に居るの?」
「どうしてって、そりゃあ、あなたのためよ」
「どういうこと?」
「片親じゃ、あなたが困るでしょう?」
私には、その言葉の意味がよく理解できませんでした。
私は今までずっと、お父さまとお母さまと共に生きてきました。
ですから、片親となった時に何がどう困るのか、わからなかったのです。
何か困るのでしょうか。どう困るのでしょうか。
生活が変わるという混乱はあるのでしょう。
けれど、私は、未来よりも今の方が困っている気がしてならないのです。
こんな愚痴を吐き捨てられる日々よりも、片親である方が幸せな未来が見えてしまう私は、おかしいのでしょうか。
言いたくはない言葉を吐いたあと、いただきものの薔薇を片手に、物思いにふけりました。
あなたよりも素敵な人に、出会える気はしません。
けれど、お母さまの声が、私を幸せそうな未来から遠ざけるのです。
「どうして僕じゃ、いけないの? 直して欲しいところがあるなら、直すから」
あなたは泣いて、私にすがりました。
お母さまに「プロポーズの時に薔薇を持ってくる男は総じてダメよ。捨てなさい」と言われたから、そうすり込まれたからとあなたを捨てる私よりは、ずっと素敵で、こんな私にはもったいない存在であると、私は思います。
「直して欲しいところなんてないわ。ああ、唯一あるとすれば」
「なに?」
「別れて欲しいと言われたら、すがりつかずに離れて欲しい」
「……え?」
「あなたの頭の中から、私を消して欲しいの」
私にはきっと、薔薇の他にもたくさんの呪いがかけられているのでしょう。
だから、これでいいのです。
私はあなたのことを記憶から消して、生きていくしかないのです。
そして、あなたも私を忘れて生きる。
これが、互いに幸せな未来を歩む唯一の方法だと思うのです。
「どうしてお断りしたの?」
「薔薇を持ってきたからよ」
「……偉い、偉いわ! 正しい判断ができる子に育ってくれたのね」
お母さまは、私を褒めてくださった。
けれど、これっぽっちも嬉しくはありません。
お母さまの愚痴を聞き流しながら、私は夢想しました。
もしも、あなたが母ではなかったら、と。
あなたが母ではなかったら、私は今、彼と共に笑っているのでしょうか。
それとも、彼と出会うことはなく、ゆえに共に笑う未来など、そもそも存在しなかったのでしょうか。
お母さまは今日も、誰かや誰かの行動を貶し、笑っています。
あなたさえいなければ――。
私は今、あなたを消したくて仕方がありません。
了
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