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出会い
それは、暗く湿った密室でのことだった。
「おれ、おまえのことが好きなんだ。避けられるのが怖くてずっと隠してきた。でももう耐えられない。なあ、実里──」
強く抱きしめられた。身動きは取れなかった。耳にかかるあたたかい息。背中に感じる手のひらの熱。
「お、おい、急になんだよ」
ツーっと冷たい汗が首筋を下っていく。
その直後だった。柔らかな何かが唇を覆った。頭がうまく回らなくて、それとも受け入れたくなかったのだろうか、何が起きているのかわからなかった。しばらくして、それが彼の唇だと気づいた。あの感触を忘れることはできない。あの、吐き気を催すような彼のキスを。
またあの日の夢を見た。定期的に脳内によみがえってはかき消すということを繰り返しているせいだろう。さっさと忘れてしまえばいいのに、あの日二人きりで閉じ込められた体育倉庫の匂いまで鮮明に記憶している。そして思い出しては身震いをする。今だって単なる夢のせいで大量の汗。すっかり湿ってしまった寝巻きをギュッと握りしめ、動悸がおさまるのをひたすらに待った。本当に、心底自分が情け無い。
「実里、起きてるの? 初日から遅刻なんて恥ずかしいわよ」
母さんの声で現実に戻される。
そうだ。俺はもうあの体育倉庫を見ることも、あいつに会うこともない。今日からは新しい環境で新しい生活が始まる。だから、大丈夫。
「起きてる。間に合うから平気だよ」
ふーっと息を吐いてのそのそとベッドから出て、強く握り続けたせいでシワになった掛け布団を伸ばす。眩しさに目を細めながら窓を開けると、微かに冬の寒さを引きずるそよ風が部屋の重たい空気を一掃した。
初めての場所、初めましての人。これほど綺麗なものは他にない。何の思い出もわだかまりもない空間で、俺たちはただただこれからの生活への期待と不安を膨らませていればいい。
入学式を待つ教室のなか、話し声はゼロではないが少数だ。その会話のほとんども初々しい自己紹介やさりげないお世辞。多くの人は机の上に置かれていたプリントに目を通しながら、クラスの雰囲気を敏感に読み続けているだけ。俺と同じだ。今日の帰りごろにはおそらくみんな少しずつ近寄ろうと試みて、明日からはそれなりに気を使う毎日が再開するのだろう。どうせ俺はまた無意味に笑みを振り撒いて明るくおちゃらける。疲れるなどと愚痴を言ったら、やめればいいと思われるだろう。でもそうする以外に人との関わり方がわからない。だから今だけでも、無でいられるこの時間を満喫しよう。
と思っていたのだが、どうも隣の席の男の様子が気になってならない。先ほどからギュッと目を瞑ったままこめかみの辺りを押さえつけている。普段の状態を知らないからなんとも言えないがどことなく顔色も悪い気がする。新生活への緊張なのか、初日だからと無理をしたのかは知らないが辛そうなことはたしかだ。
でも、俺の知ったことか。俺が声をかければ体調が良くなるというものでもないだろう。それなら黙っていたほうが相手にとってもいいかもしれない。だけど、一人で耐えるのは心細いよな。
「大丈夫、スか?」
一応敬語をつけて、相手の出方を伺う。彼ははじめ声をかけられたのが自分だと気づかなかったのかワンテンポ遅れてこちらを見て、チラチラと動揺したように目を泳がせていた。もしや体調が悪そうだというのは完全な勘違いだったのだろうか。
「俺、佐伯実里。頭痛いのかなって思って、少し心配したんですけど……」
重すぎず軽すぎずのテンションを保ち、はにかみながらそう付け足す。しかし彼はじっとこちらを睨みつけるように見たまま何も答えない。
「あの、大丈夫?」
何か気に食わないことでも言ってしまったのか、それともあまりに体調が悪いのか。不安になりながらもここで目を逸らすわけにもいかずにもう一度問うと、彼は我に帰ったようにビクリと肩を震わせた。
「……平気。慣れてるから」
「痛いものに慣れとかないでしょ。そんなに無理しなくても……」
彼は目を伏せてそのまま自分の机に突っ伏してしまった。
愛想のかけらもない奴だ。別に俺にはどうでもいいことだけど。こいつ自身が、クラスに馴染めず友達もできず、高校生らしい経験なんて何一つ味わえないまま卒業していくだけなんだから。
俺も自分の机に向き直り再びプリントに目をやった。
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