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消したもの
「ごめん、金貸して?」
「……またぁ?」
空はテレビ画面から目を離して、両手を合わせる男を見やった。
付き合って三年ほどとなる彼、黒原セイギは、こうして度々金の無心をしてくる。
「……今度は何に使うの」
「取引先との飲み会!」
セイギはフリーエンジニアだ。界隈では腕の良い技術者だと有名らしい。
取引先、というのはセイギの技術を買った者たちのことだろう。
「赤字になるなら、そういうの辞めたら?」
スマホを取り出しながら、そう言ってみる。
「付き合いが悪くなるとビジネスも上手くいかなくなる業界なんだよぉ。頼む!」
こんなことを言っているが、ただ酒が飲みたいからだというのは、長年の付き合いから理解している。毎度毎度それっぽい理由を言ってくるから、次はどんな言い訳をするのかとわくわくしてしまうくらいだ。
「……分かったよ。次はないからね」
デジタルマネーを送りながら何十回目かのセリフを言うと、セイギはぱあっと顔を輝かせた。
「ありがとう! 恩に着るよ!」
これまた何十回目かの言葉に、空ははいはいと頷いた。
ヒモ男と化しているセイギに呆れて何度か別れることも考えたが、毎回踏みとどまってしまうくらいには、セイギのことが好きだった。
バーで出会って意気投合し、友人として距離を縮めてからの交際。金銭面ひとつで嫌いになるには、もう手遅れだ。
それにもう、空から別れを切り出せない事情が出来たから、こうやって際限なく甘やかしてしまう。
いつその理由を言おうかと、タイミングを伺っている。
ーーそんな時だ。
黒原セイギが、知らない女を連れてきたのは。
「子供が出来たんだ。別れてほしい」
「……何それ。どういうことよ」
女は申し訳なさそうにしながらも、時折腹に手を当てて頬を緩ませている。
セイギはいつも通り、へらへらと笑っていた。
「一ヶ月くらい前に居酒屋で出会ってさ、好きになっちゃったんだよ。実はずっと別れようって思ってたんだけど、何か言いづらくて」
言葉が出なかった。そんな素振り全くなくて、気付かなかった。
震える声で、一番訊きたいことを問う。
「……私のことは、もう好きじゃないのね」
セイギはきょとりと目を瞬かせて、簡単に頷く。
「うん。まあ、最初からそんなに好きじゃなかったけど」
頭の中が真っ赤になった。叫び出したい、詰りたい、蹴っ飛ばして殴ってやりたい。
衝動を、一言におさめる。
「分かった」
下腹に爪を立て、吐き捨てた。
「二度と顔を見せないで」
翌日、結婚式の招待状が届いた。
そこでようやく分かった。空は金のなる木や性欲の捌け口として使われていただけで、空の言葉さえも黒原セイギにとっては重要でなかったのだと。
それでも期待してしまったのは、空の弱い心のせいだ。
ドッキリだと、本当は空と結婚するんだと、プロポーズしてくれるんじゃないかって。
おめおめと結婚式場に足を運んだ。
『何か壊れたら連絡しろよ。昔のよみしで直してやる』
知らない女との結婚式が終わった後、彼はわざわざ私のそばに来て、そう微笑んだ。
あの時ほど、誰かを殺したいと思ったことはない。この男と数年を過ごしたことは汚点だとすら思った。
男との思い出も、記憶も、何もかも消さなければ。
数日後、空は、お胎の中にいた命を堕ろした。
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