シックスセンスチルドレン

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   あるいは、と僕は思う。  こう考えてみてはどうだろう。  遠くで吠えている犬が実は僕に語りかけているのだとしたら?  彼女が首を振る。  それは違う、と。  夜が深まるにつれて月はより明るく際立つようになっていた。 「あるいは、と僕は思う」  今度は声に出して言ってみる。 「遠くで吠えている犬が実は僕に語りかけているのだとしたら?」  彼女の様子を伺う。  彼女は暗闇に腰をかけて、なにかを思案するように俯いている。  少しは、近づいたのかもしれない。  彼女が顔を上げ、首を横に振った。  今度も駄目だった。  月が異様なほど輝いている。  思わず目を瞑るが、まぶたの向こう側ではより光は強くなる。僕は月の光に頭からつま先まで照らされ、影が伸びた。影は黒から濃紺、そして深緑へと色を変えていく。  まだ足りない。  また、遠くで犬が吠えた。  どれくらい離れているのだろう。どのような犬種でどのような見た目をしており、どうして吠えているのか直接尋ねてみたい。  それには僕から影を落とすしかない。  いくら待ってみても影の色は深緑から変化しなかった。  仕方ない。  これ以上待っても変化は訪れないだろう。  彼女は体を丸めて床に寝ている。声をかけたが返事はない。まるで化石になるために何万年も眠ろうとしているような強い意志で彼女は臥せていた。僕はそれからも月の光が揺れ動く下で影の変化を待ってみたが色は変わることはなかった。  いつの間にか眠っていた。  もう何十年も忘れられているような、誰もが見向きもしない路地裏に僕たちはいた。  彼女はまだ眠っている。起きる気配は今のところない。  まだ夜は明けていないようで、しんとした暗闇が広がっていた。  口がスポンジみたいに渇いている。体のあちこちが痛むせいで、動く気にもなれない。もうずいぶんとまともな食料にありつけていない。  最後に食べたのはギャルがくれたハンバーガーだ。 ピクルス抜きを注文したのに、かじってみればピクルスが挟まっていたらしい。ひとくち食べたもので良ければということで頂いた。ギャルの歯形が皆既月食の途中経過のようにくっきり残っていた。  あれはたまらなく美味しかった。そのあと、食欲が爆増して飢えた野犬のような目で街をうろつく羽目にあったがそれでもあの時食べたハンバーガーが忘れられない。  僕はどんな事があってもギャルの味方になると強く思った。  まだ、真夜中はマシだった。日中は明るくて目立つし、なによりも食べ物の匂いがあたりに立ち込めているものだからお腹が減ってしかたない。  空腹から目を逸らすように空を見上げる。  ビルとビルの隙間から見上げる空は細長く、電車のレールのようだった。  僕はこのわずかな夜空に電車が走る姿を想像した。銀河鉄道のように蒸気を放出しながら宇宙の果てまで連れていってくれる。そこが言いようのない終点だとしても僕は行ってみたいと思った。  僕は、僕の中で眠る彼女のことを考えた。  この逃避行もそろそろ限界が近いのかもしれない。  貧困に喘いでいた彼女の両親は彼女が生まれてすぐにとある研究施設に売った。そこでは倫理観を無視したあらゆる実験が行われており、彼女はその被験者のうちのひとりだった。  次々と被験者が死んでいく中で、不幸にも彼女はあらゆる実験に適合していった。研究者たちは口にするのも悍ましいような人体実験を彼女に対し行っていった。  ある日、彼女の意識が過去に戻れることがわかった。研究者たちは沸き立ち、彼女が過去に意識を飛ばせることを利用して利益を得ようとした。  しかし彼女は過去に意識を飛ばせる代わりに五感を失ってしまった。過去に行ったとしてもそれを伝える手段がない。  しかし僕だけは例外だった。  僕も被験者のうちのひとりで、主に意識に関する実験が行われていた。そこで僕は相手の意識を覗けるというちょっとした能力が発現したのだ。覗けるといっても映像ではなくスライドショーのように写真でわかる程度のものだがそれでも研究者たちは過去を知りたがった。  そこで僕ははじめて彼女と対面した。  その時のことを今でも鮮明に覚えている。  体のあらゆる箇所が欠損し、あるいはつぎはぎのように縫われ、人の形をした大きな人形だと僕は思った。  そして彼女の意識に入ってすぐ、僕の中に流れ込んできた数々のものに僕は打ちのめされた。  ばらばらにされた体と心は死を求めていた。  僕は彼女と共にこの研究施設から抜け出す決意をした。  適当にでっち上げた過去の出来事を話しているうちに研究者の僕に対する態度が柔和した。その隙をついて僕は彼女の意識を取り込んだ。  一か八かの賭けだったが、それは成功した。僕はあらかじめ計画していた通りに行動し、僕は彼女と共に施設を抜け出した。  そして今に至る。  もちろん、ここまで来るのに僕たちは数々の困難を乗り越えてきたわけだが、施設での生活に比べたら茹でたかぼちゃに包丁を入れるようなものだった。  しかし大人ではない僕たちが生きていくにはどうしようもない壁がいくつもあった。住む場所もなければお金もない。もちろん頼る人もいない。  それを踏まえた上で僕は行動した。  だから後悔することはあってはならない。  しかしこの逃避は彼女が頼んできたことではない。まるっきり僕のエゴであり、彼女の意志を無視した行動だった。  これで良かったのだろうか。  彼女に問いたくなるのを堪える。  その答えがなににせよ僕には耐えがたいものであるような気がした。  空想に耽っているとそばで土を踏む音が聞こえた。音の方を見るとそこには誰かが立っていた。  僕はその人のことを観察した。  街明かりが逆光となっており黒いシルエットしかわからない。身長は測りかねるが少なくとも細身であり、そのシルエットから女性らしいことは分かった。鞄やリュックを背負ってるわけでもなく、手に何か持っているのでもなかった。 「そんなところにいたのね」  こんな場所にまでやってくる人間は施設の奴らしかいない。  僕は重たい体を無理やり起こした。少し寝たおかげで頭はすっきりとしている。  僕は相手に意識を向ける。  しかし、上手く入り込むことが出来ない。 「当然、あなたの対策はしてきている。意識に潜り込もうとしても無駄よ」  僕は後ろを見た。  巨大なビルの壁が逃げ場を遮っている。  唯一の逃げ道には女が立っている。 「あなたに危害を加えることはしないわ。施設を抜け出したのは良くなかったけれど、あなたの中にいるその子を渡せば不問にしてあげる。どう?」 「嫌だ」  女は露骨にため息をついた。 「それなら無理やり連れて帰るしかないわね」  女はこちらに向かって走り出した。  僕はまだ寝ている彼女に問いかける。  結局、自由なんてものはそう簡単には手に入らなかったね。命の保障があってこそ、自由はやっと現れるみたいだ。僕たちは束縛からの逃避こそ出来たものの、本当の自由を知ることはなかった。  ごめん。  なにも出来なかった。  ただ、ひとつ気づいたことがある。  僕でさえも、君を束縛していたうちのひとりだったんだ。自分勝手に君を取り込んで、追い詰められた。 なにも君まで追い込まれることはなかったのに。  だから、君を僕の意識から消すことにした。  それがきっと唯一の自由だから。  女の拳が僕のみぞおちに深く入りこむ。  内臓が圧迫され、口の中に胃液の味が広がった。  呼吸が苦しく、膝から崩れ落ちる。 「彼女はもう、いない」 「なんだと?」  女の腕が僕の首に伸び、気道が強く締め付けられる。 「彼女は、自由になった」  女の顔は怒りのためか酷く歪んでいる。  僕の首を絞めている腕に力が込められる。  これで良かったのだと思う。  僕も、もう自由だ。  なにからも逃げる必要はないし、なににも縛られる必要はない。  視界が揺れ、頸椎が折れる音が聞こえた。  その音は、昔聞いたゴールテープを切る音に少し似ていた。
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