後ろの正面、狐の面

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後ろの正面、狐の面

 サイタ、サイタと楽しそうな『声』が嗤う。  最愛だったあの人が変わっていった花を見た瞬間、『声』は信じられないとばかりに顔を顰めると、あの人が最期に遺された言葉を食した。 「直。お前の兄さまの書類が溜まってるんだけど」 「直の兄さまが酒場で使った費用。経費では落とせないぞ!」 「お前の兄が」  兄、兄と続く言葉に直の頭の中はゲシュタルト崩壊しそうだ。  自分をこの世界に引き留めた青年、兄さまは前の世界でいう警察組織の総監のような立場をしているのだが、面倒ごとばかりを起こし、そのツケが自称弟である直の元へと持ちこまれる。今日も自分の机の上が書類の束の山になっていることに、直はひとり泣きたくなった。今まで、兄さまの兄弟分だというワンコさんが、どれほどの苦労を抱えていたと知れば、申し訳なさから二度と彼に頭を上げられない気がする。書類仕事の半分以上は、直の仕事になった為、ワンコさんも以前よりも現場へと復帰出来るようになったことだけ、周りからしてみれば喜べることかもしれない。  自分はいつから家に帰っていないのだろう。兄さまから交友関係を作るためにも学校に通った方がいいと言われ昼は学校に通い、学校が終われば、兄さまたちの職場で仕事をしている。  兄さまの家から引っ越しをして、一人暮らしを始めたのはいいものの、職場に泊まりこんでいる日々が続いている為に、周囲からも家賃だけを払うだけなら兄さまの家に戻った方がいいのではないのかと言われるが、今、兄さまの暮らす家に帰れば負けたような気がして、帰れない家の家賃だけを払い続けている状況だ。 「相変わらず、あいつの仕事までしているのか」  黒い犬の面をつけている、ワンコさんが哀れみの視線を直に向ける。 「あの、ワンコさん。弟というなら本来、あなたが兄さまの弟のようなものじゃないですか。なんで、皆が皆、兄さまのやらかしを僕にばっかり押しつけるんですか」 「皆、お前がちびの頃から知っているから、用事を言いつけやすい。それに今は階級が一番、下だからじゃないか」 「そこは普通、慰めの言葉をかけるものじゃないですかね」  ワンコさんは乱暴に直の頭を撫でてくるが、小さいときと同じように頭を撫でれば、自分のご機嫌が取れるとは思わないでほしい。 「……今度、ワンコさんの奢りで、お腹いっぱい、ぼくにあんぱんを食べさせてください」  おちびと呼ばれていた頃とは違い、直の機嫌をとるにはこれくらいのことをしなければいけないのだと、ワンコさんに言うと、何故か、彼は笑いを堪えたように咳払いをする。 「それより、ぼくになにか用ですか?」 「事件だ、直。皆も集まれ」  ワンコさんの召集に各々、仕事をしている手を留めて、皆が彼の元に集まって行く。 「――さま。今回はどんなヤマですか?」  それぞれにお面を被った部下たちが尋ねる。未だ、彼らの名前にノイズが混じるのは未だに自分が彼方の世界に帰りたいという迷いが生じるせいかもしれないと、直は思い始めていた。 「お前たち、『伯爵令嬢の絵』のことは覚えているか?」  直は手を挙げると彼の目配せを受けてから、発言する。 「あの、兄さまが燃やしたやつ、ですよね?」  直がこの世界に慣れていない頃に遭遇した事件だが、未だにあの絵の気持ち悪さは忘れることが出来ない。あのときに知り合った麗子からは、たまに彼女の友人の娘、あさの様子を聞くが事件の影響はなく、健やかに過ごしていると聞き、安心している。 「あの事件で男爵が使っていた薬は、同時期に邏卒に捕まった男が生み出した代物だったんだ」 「ぼくは聞いてませんよね?」 「胸糞悪い事件なこともあり、情報は俺と――のところだけで止めていたが、今回の事件に繋がる可能性も出てきたから解禁させる。ひとりの慈善家の話だ」  親が亡くなってしまったり、居場所がなくなった子達を引き取り『家族』として育てていた、商家を営む裕福な慈善家がいた。彼は自分が暮らしていた洋館に彼ら住ませ、家族のように暮らしていたという。周りから立派だ、自分にはなかなか、出来ることではないという褒め言葉にも謙遜していたが、その姿は表向きの話だった。  ひとりの青年がある日、仲良くしていた近所の家に『自分はあいつに花にされてしまう』と助けを求めたらしい。青年の話によれば、子供の頃は大切に扱われていたが、家で生活をする為には、一枚の誓約書に署名を書かされたそうだ。そこには成人すれば被検体として研究に協力するという項目だったが、子供の頃は腹が満たされればいいと軽い気持ちで署名をしてしまったという。  研究に参加することになったと話すきょうだいから、もしも自分が帰って来なかったらみてくれと、日記を託された彼は自分たちが実験材料として引き取られたことを知り、青年は慈善家の目を盗み、逃げ出してきたと話す。  通報を受けた邏卒が慈善家へ青年の話を確認しに行けば、すでにもぬけの殻だった家を見て、彼は全てが露見したのが分かったのか、ただ、自分は客の要望に合わせて薬を作っていただけだと邏卒を怒鳴りつけた。  引き取った子供が大人になれば、花に変えたあとで薬を作る。それがどのような効果が現れるのかを実験も兼ねて、闇市にも薬を回していたらしい。儲かるどころか大損だと、呆れたことに、反省するどころか青年が逃げたことに損害を払え! と怒っていたらしく、邏卒は改めて、詳しい話を交番所で聞くことになった。そのあとは軍部上層部、兄さまたちの組織、花影までに情報が渡った。  逃げられた青年は、きょうだいのように育ってきた子たちが保護されたことを聞くと、安堵のあまり涙ぐんだらしい。ひとつだけ、兄さまたちが気になったのは、青年がひとりの弟をやけに気にしていたことだったが、彼が口にはしなかったことで、大したことはない情報だと判断した。  こうして、慈善家が刑罰を受けることで一応の解決した。闇市で回っていた薬も全て、回収したという。  しかし、最近になり、ある女学校で『エス』を誓っていた相手の前で花になり、自分の想いが真実であるかを確かめる、少女たちの言葉でいう『儀式』が密かに行われているという情報が入ってきたらしい。そこに以前、ふたつの事件に関わる薬が使用されているのではないかと、軍部から直々に兄さまに『これは人の世を乱す事柄ではないか』との相談があったという。  人の事件は人が解決するものと兄さまたちは判断をしているが、兄さまの上司の憂いになりそうなら手を貸すようにしている。この件は自分たちが入るべきだと、兄さまとワンコさんは判断をしたらしい。 「ワンコさん。『エス』ってなんですか?」 「ああ、直も知らなかったか」 「シスターの頭文字を取った、女の子同士の特別な関係のことをいうらしい。それで、あいつはどこに行ったんだ?」 「にい……」  彼を呼ぼうとして兄さまの姿をみて固まった直とワンコさんの呆れて出たため息が重なる。 「なんだ、その格好は」 「この姿の私も可愛いだろう?」  白い狐の面を被り、いつもより身長を小さく化けて、女学生の袴を着ている兄さまは髪につけている大きなリボンを見せるようにくるんと回る。髪も女学生たちの間で流行りの髪型にしている辺り、芸が細かい。  周囲をみたが、兄さまの部下たちは、嫌な予感を察したのか既にいなくなっている。 「どうだ?」 「兄さまは女性にもなれたんですね」  何度か、兄さまの変幻をみたことがあるものの、女性に化けた姿を直は初めて見た。 「ああ、変幻は私の得意分野だからね」  兄さまが女学生に化けたことに嫌な予感がして、また書類仕事に戻ろうとはするものの、ワンコさんと兄さまが両方で腕を掴んで押し留められてしまう。 「直、分かっているよね?」 「わ、ワンコさん」  彼の顔を見るが、ワンコさんは諦めろというように首を横に振る。 「直の役割は、私の妹だよ」 「あのぼく、学校が……」 「大丈夫、大丈夫。学長はご存知だからね。学校と仕事が重なった場合は仕事を優先出来るように話してあるから」  やっぱり、女学校に潜入しなければならないのかと、直は自分の分まで用意をされていた袴を見て脱力する。マリアから事前に協力を得ていたようで、既に直の為に用意をされた色違いの袴が取り揃えられている。 「何色がいい?」  兄さまに可愛らしい桃色の袴を体に当てられて、直は渋々、地味な藍色の袴を手に取る。 「りぼんは黄色がいいな」  その場で着替えてしまうと、直は兄さまとワンコさんに自分の姿を確認して貰う。 「こ、これ、男だって気づかれるんじゃ」  姿見で自分の姿を映すが兄さまとは違い、男子学生が趣味で女学校の袴を着ているようにしか見えない。この姿を見られれば、自分の方が邏卒に捕まってしまうんではないかと直は思ってしまう。 「大丈夫じゃないか?」 「ああ。少年にも見える少女ってことで、女学校では人気が出そうだな」 「兄さまは」  兄さまは直の唇を人差し指で留めると笑う。 「姉さま」  もう演技は始まっているのかと、直は普段、呼んでいる『兄さま』を『姉さま』と言い換える。 「姉さま。これからどうするんですか?」 「あささんと合流する」 「あさちゃんと?」 「今、彼女は件の女学校に通っているんだ」 「ご無沙汰しています」  女学校の前であった、あさは以前はくまのぬいぐるみを持ち、知らない人とは口を聞けないという人見知りだったが、今は他の少女と変わらない姿に直は安堵する。 「元気そうでよかった。今は女学校に?」 「はい。婚約者も学業を優先していいと言ってくれているので、卒業までは学業に専念するつもりです」  婚約者という言葉に直は驚いてしまったが、元々は男爵家のご令嬢だった子だ。婚約者がいてもおかしくはないと思い直す。そのことに気づいた兄さまが軽く、耳打ちをした。 『女学校は良家のお嬢さんが多いから。大抵の場合が婚約者が決まっているんだ』  あさは直の大丈夫なのかという視線を感じたのか、彼女は微笑む。 「お父さまがああなって、本当は婚約を破棄されてもおかしくはなかったんです。でも彼が父と私は関係ないと言って、婚約は継続されることになりました。見た目は屈強な方ですが、とっても優しい人なんです」 「ああ。彼はいい人間だから、直も心配することない」  あさに続き、兄さまも婚約者の人柄に頷く。兄さまが言うのなら間違いないだろう。彼女が父の事件を引きずっていないようで、直はよかったと思う。他の女学生の姿が見えたことで、あさは自分たちを校舎内へと案内すると、ひとつの教室の鍵を開いた。 「此処は?」 「授業が終わったあと。生徒たちは自分が好きな趣味の活動をすることが出来るんですが、教室も事前に先生に申請すれば貸して貰えるんです」  あさは直たちに腰掛けるように促すと、お湯を沸かしたあと、真っ黒な液体を直たちの前に出す。兄さまが美味しそうに飲んだことで、直も恐る恐る、口にしたがあまりの苦さに噴き出しそうになってしまった。 「あささん、牛乳はあるかな? 直のお子さま舌にはまだ早かったようだ」 「な、なんですか。この墨汁みたいな液体は」 「コーヒーだよ。貴重な一杯だ」  まだ舌がピリピリするような感じがしてしまう。兄さまは辛いものは苦手な癖に、苦いものは平気だったらしい。あさは申し訳なさそうに温かくした牛乳を直の前に差し出した。 「直さんは苦いものがお好きではなかったんですね。すいません」 「いや、大丈夫です」  妹と同じ年頃のあさの前では格好をつけたくて、再度、挑戦しようとするものの、兄さまに直のコーヒーまで飲まれてしまう。仕方がなく、甘い牛乳をちびちびと飲む直を見ながらも、あさは話を始める。 「直さんたちが私に会いに来たのは、千代さまと文子(あやこ)さまのことを聞くためですよね? 学年が違ったので噂くらいしか知らないですが」 「話してくれるか?」 「ええ。私が知っていることで良ければ」  あさの話でも学内では姉妹のように仲のよいふたりを影で『エス』と呼びあい、男女の関係とは変わらないよう振る舞っている少女たちもいるという。中でも千代と文子の関係はふたりの距離の近さに恥じらいを覚えて、目を逸らしてしまうような女学生たちも多かった。  そんな関係を危ぶんだのか、千代は親から早々に女学校を卒業させられ、文子との関係を切るように言われた。そこで、千代は事前に学内の『誰か』から薬を入手していたらしい。  叶わない恋を貫きたければ、図書館の本にある花を描いた栞を挟めば希望は叶う。  そう女学校では噂をされていたが、千代は実際に図書館の本に栞を挟んで薬を手に入れ、文子の前で花になった。その花を押し花の栞として大切に持っていたらしいが、千代が消えたことで千代の家族は文子を問い詰めた。彼女はいずれ、あの子を追いかけるつもりだったと、千代の家族の前で薬を飲み、文子への想いを遺すようにチューリップへと姿を変えてしまった。  この事件は女学校の中で生徒たちに黙っておくようにと教師からも言われたが、今でも、ふたりのように自分たちの恋を守りたいという女学生たちもいるらしい。 「私の知っている話はこれくらいなんですが。安曇さまたちはこれから、女学校に入られるおつもりなんですよね?」 「なにか問題が?」 「おひとり。学内で薬を融通している方に心当たりがあるんです」 「本当か?」  兄さまの問いかけに、あさは頷く。 「はい、白鳥さまという陸軍で階級を持つお父さまがいる方です。以前まで、後輩のキヨさんと『エス』の関係と噂をされていたのですが、キヨさんが結婚の為、卒業をしたあとから、様子がおかしくなって」  あさは直をみて、心配そうに告げる。 「安曇さまの妹役は直さんですよね。どうかお気をつけて。今の女学校では誰を信じていいのか分かりません」  あさは頭を下げると、そろそろ、部屋を閉めなければいけませんのでと、先に直と兄さまを部屋から出す。どうして、あさが直のことを心配そうにしたのか。女学校に通う前まで直も兄さまにも分からなかった。 「ごきげんよう」 「ごきげんよ……」  途中まで挨拶を交わした女生徒が幽霊でもみたかのように直の顔をみると、小走りに走り去ってしまう。 「お姉さま。やっぱり、ぼく、おかしいんじゃ」  改めて、自分の姿を眺めながらも、直は兄さまに聞いてみる。 「直は私の次に愛らしいよ。あささんも言い淀んでいたが、やはり、この女学校には何かありそうだね」  ひとりの女生徒の為に道が開けられたことに、兄さまも直もそちらに顔をむけた。幽鬼のように足がふらふらとしている女生徒が、ひとりの青年に支えながらも、校舎へとゆっくりと歩いていく。  元々は美人だっただろう。背まで伸びている黒い髪には艶がなく、目が窪んで頬がこけてしまっていることから病気じゃないのかと彼女が通りすぎる際、直が思ってしまう。表情がなかった女生徒は、直を瞳に捉えた瞬間鋭い眼光を宿した。 「キヨ‼︎ キヨじゃない‼︎ 貴女、今まで、どこにいたの?私に黙って消えるなんて……」  女性とは思えない力で両腕を掴まれ、思わず、目に涙が出そうになる。女生徒に掴まれた腕を兄さまはやんわりと離すと直を庇うように前に出た。 「この子は『直』ですが、人違いじゃありませんか?」  兄さまの言葉に女生徒は再度、直を見ると、そのまま、何ごともなかったかのように校舎へと向かう。彼女を支えていた青年は教師に女生徒を託すと、また此方に向かい、走ってきた。 「お嬢さまに掴まれたところは大丈夫ですか?」 「えっと。あなたは?」  直が尋ねると、青年は丁寧なお辞儀をする。 「白鳥家、久子さま付きの三郎と申します。怪我をされているようでしたら、治療費は白鳥家で持ちますので」  怪我と言っても、久子が掴んだ指の痕がついたくらいだろう。三郎に問題ないと直が告げると、彼はじっと直の顔をみつめる。 「そんなにぼくと似ていたんですか?」 「ええ。よく見れば違いますが、雰囲気が似ていることもあり、お嬢さまも間違えられたのでしょう」  三郎はなにかあれば自分に伝えてくださいと再度、頭を下げると授業終わりまで久子を待つつもりなのか、校門前に佇んでいる。一連のことを経て、考えこんでいたような兄さまは直に告げた。 「直。作戦を変更しよう」 「変更、ですか?」 「お前はキヨの情報を集めろ。お前と似ているということだから、相手の口も軽くなるかもしれない。いざとなれば、たぶらかせばいい」 「は、はい⁉︎ ぼくは兄さまと違って、他人を魅了させて口を割らせるなんて才能なんてありませんよ?」  兄さまは笑うと軽く、直の頬を抓る。 「直。ここでは」 「いひゃい、姉さま、です」  よろしいと兄さまは頷いた。 「擬似姉妹の路線で薬を入手しようとしたが、本当の姉妹ということにして、私はお前とは別に情報を探るとしよう。直、くれぐれも無茶はしないよう。なにかあれば、すぐに姉さまを呼ぶんだ」  直のりぼんが緩んでいたのか、結び直して、軽く頭を撫でてから兄さまは上級生の教室へと向かう。なんとなく心細くなった直はりぼんに手を触れると、事前に通達があった教室へと向かった。  既に教師がいたことに、早足で教卓の前に行く。 「貴方が『安曇直』さんね。直さんの席は」 「はいはーい! せんせー! わたし、直さんの隣がいいです」  明るい女生徒の行動に教師は直に視線で確認をとると、直は彼女の隣に腰を掛けた。 「私は芳子って言うの。あなた、本当にキヨさんにそっくりね。ご親戚?」  周囲は直の素性を聞きたくて仕方がなかったらしい。芳子の声に聞き耳を立てているのが分かる。 「ひとつ上にお姉さまがいるけど、『キヨさん』って子は知らない。そんなに、ぼくに似てるの?」 「芳子さん。転入生が珍しいのは分かるけど、まだ先生のお話が終わってませんよ」  教師に注意をされたことで軽く舌を出しながらも、芳子は教師に謝る。彼女のノートの端に『昼休みに』という言葉を見て、直も黙ると授業を真面目に受けた。 「直さん。お昼に行こう」  女学校生たちの間では、名前に上級生なら『さま』同じ学年なら『さん』歳下なら呼び捨てにするという風潮があるらしい。早速、直を名前で呼ぶ彼女に促されて、直はお弁当を持って彼女の後についていく。彼女は図書室に向かうと、中にいた教師に声を掛けた。 「先生。お昼に準備室を使っていいですか?」 「本当は駄目なんだからね」 「分かってますって。また、本の整理とか手伝いますから」 「はいはい。期待しないで待ってるわ」  教師に鍵を渡されて、準備室に入ると、久子は直にも席をすすめる。 「好きなところに適当に座ってね」 「芳子さんが私を誘ったのは、『キヨさん』のこと?」 「うん。直さんがどうして、皆に驚いた顔をされたのか気になってないかなって。転入生が珍しいってこともあるけど、注目されて、驚いたでしょ?」  直も似ているだけなら、ここまで顔を見て怯えられるのはおかしいと思っていた。芳子が弁当の前で手を合わせるのと一緒に直も弁当を開く。ご飯の上に梅干しだけの日の丸弁当をみた芳子はいくつかのお菜を直の白飯の上に載せてくれた。 「あ、ありがとう」 「ううん。ご飯だけじゃ寂しいしね」  自分だけが食べるからと職場の給湯室で適当に詰めてきたが、誰かの目があることを考えれば、これからは考えなければいけない。  情報を探るため、あまり目立たずに学園生活を送りたかった直だったが、初日からこれだけ注目をされているなら無理だと、兄さまの言う通り、別の方向から情報を得ようと思う。 「慌てて作ってきたから。ご飯しか詰められなくて」 「直さん。自分で作っているんだ、えらいな。うちは春ちゃんが作ってくれるから。きっと、私が台所に入ろうとすれば、皆に止められちゃうだろうし」 「住みこみのお手伝いさん?」 「うん。キヨもお料理上手でよく自分で作ってたんだよ。花嫁授業の一環なんだって」 「キヨさんは、結婚のために学校を卒業したんだよね?」  直の言葉に困ったように芳子は眉根を寄せる。 「だったらいいんだけどね。ここだけの話、キヨは婚家に嫁いでいなくて、行方知れずなんだ。キヨの家は家出だと思って、捜索願を出していないし。学校は学舎から出ちゃえば関係ないって冷たさだしね」 「久子さまも知らないの? キヨさんのこと、消えたって思ってるみたいだったけど」 「あぁ、久子さまね。キヨとは姉妹みたいに仲が良かったよ。今は久子さまは幽鬼みたいになっちゃってるけど。みんなの理想のお姉さまだったし、よく、キヨの面倒をみてた。そっか、本当に直さんは似ているだけなんだね。世の中に自分に似ている人は三人いるって言うけど本当だな」 「あの、芳子さんとキヨさんは」  呼び捨てにしているということは、友人以上に仲が良かったのだろう。直の問いかけに、芳子は懐かしそうに目を細める。 「うん? 親友だったよ」  芳子はなにかを誤魔化すように笑う。鐘が鳴ったことにふたりは早く食べると、慌てて、図書準備室から出た。  放課後。芳子が学内を案内してくれるという誘いをやんわりと断ると、直は芳子とお昼を食べた図書室へと向かう。何人かの生徒が静かに読書をしているなかで、何冊かの本を手に取ってはみるが、栞が挟まった本を見つける為にはどれくらいの時間がかかるのか分からない。  今も薬を欲して、本に栞を入れた女学生がいるのかすら、分からないのだ。  一度、兄さまと情報を合わせた方がいいかもしれないと手に取った本を戻すと、直は校門前へと向かう。まだ、久子は学内にいるのか、朝とは変わらず、校門のすぐ傍には三郎の姿があった。校門の方を女学生がちらちらと気にしているのは、彼が人形のように整った顔をしているからだろう。真白い肌に黒曜石のような瞳には感情が見えない。兎さんとは違った意味で、読みにくい人だと思う。 「こんにちは」 「……今朝の」 「朝からずっと待っていたんですか?」 「お嬢さまになにかあるといけませんから。お嬢さまに掴まれた場所は大丈夫ですか?」 「あっ、はい。平気です」 「また、なにかあれば、ご遠慮なく仰ってください」  三郎からもなにか情報が聞けないだろうかと、直は彼の前で『キヨ』の名前を出す。 「学内でも皆がキヨさんとぼくが似ているという話だったんですが」  三郎は興味がないように、直の顔をみると、淡々と話しだす。 「お嬢様の『最愛』ですね。私からしてみれば、どうしてあんな女が好きなのかが分かりませんでしたが」 「あんな女?」 「失礼、口がすぎました。あの方が素直に婚家に行ってくれて良かったと白鳥家では思われています。これ以上、お嬢様に近づくようなら、色々と考えなければいけませんでしたから」 「それは」 「直さま。世の中には知らないことが、良いことが多いということです。これくらいでよろしいでしょうか?」  これ以上のことを聞けば容赦はしないという副音声が聞こえるようだ。三郎は名家に仕えていることもあってか、丁寧な態度で直に接してくれてはいるものの、しつこく聞くことでお嬢さまのことを嗅ぎ回っている者がいると白鳥家に報告されてもおかしくない。 「ありがとうございました。皆からキヨさんとそっくりだと言われて、どれだけ似ていたのだろうと気になったものですから」  その言葉を聞いて、三郎は瞬きをすると、口元を緩める。 「そうですね。直さまとあの方は違う人間ですし、いい迷惑でしたね」  三郎からみても、キヨは自分に似ていたのか。違うということを判断した三郎からは、直が感じた敵意のような感情はなくなっていた。 「ええ、それでは」 「はい。お気をつけて」  まだ、心臓がどくどくと早鐘打っている気がする。三郎から距離を取ったところで、ようやく、直は息が出来た。  今日一日で『キヨ』の情報を色々と得たが、彼女がどんな少女かが検討がつかない。ひとまず、十二階へと直は足を向けた。 「おかえり、直」  自分よりも早く職場にいた兄さまに直は向かっていくと、彼の両肩を揺する。 「どうして、兄さまがぼくより早く戻ってるんですか!」 「いやぁ。後輩たちだけではなく、同級生たちにまで『お姉さま』になってほしいと迫られて、怖くなってね。もう妹はいるからと逃げてきてしまった」  よっぽど疲れたのか。珍しく、脱力をしているような兄さまに仕方がなく、手を話した直に自分の方はどうだったのかを彼は尋ねてくる。 「皆が皆、怪しく思えるんですけど」 「例えば?」 「まずは、『キヨ』を可愛がっていたという久子さま。そして、親友『だった』という芳子さん。あとは久子さま付きの三郎さん」 「皆、彼女に関わっていた人だね」 「それに『キヨ』がどんな人が分からなくなりました。ぼくに似ている。久子さまの『最愛』で、白鳥家からはよくは思われていなかった」 「『人』は皆、万華鏡のようなものだからね。その人がみたい角度によって、印象というものが決まってしまう」 「そうですね。兄さまはキヨさんについて調べたんですか」 「ああ」  兄さまは卓の上にある書類を直に手渡す。そこには『浅野キヨ』と書かれた彼女の身上が書かれている。 「キヨさんは、養子だったんですね」 「残念ながら養子以前の経歴は終えなかった。浅野家がキヨさんを引き取ったのは困窮していた家を結婚によって建て直す為だけだったそうだ。彼女が久子さんに近づいたのも、彼女が陸軍少尉のご令嬢だったということも関係がありそうだね」  だから、三郎はあんなに憎らしそうにキヨのことを話したのだろうかと、書類を見つつも直は考える。 「兄さま。やっぱり、キヨさんは行方不明なんですか?」 「表向きは結婚を早めた為の退学となっているが、その後、彼女に会った者はひとりとしていない」  兄さまの口調を聞けば、もうキヨは既にこの世にはいないのだろう。ため息を吐いた直から、兄さまは書類を奪ってしまうと立ち上がる。 「直。美味しいものを作ってくれないか?」 「えっ。今日こそは自分の家に帰りたいんですけど」 「直のご飯が食べたいなぁ」  上目遣いで兄さまに乞われた直は、その顔に負けてしょうがないなと頷いた。 「あらぁ、直ちゃんに狐ちゃん。ふたり仲良く、お買い物かしら?」 「マリアさんもですか?」  市場でマリアと会うことは珍しい。声を掛けられた直は彼女の買い物袋をみて尋ねる。 「そうなの。ようやく、仕事が落ち着いたのよぅ。良ければ、一緒に食べない?」  直が兄さまを見ると彼が頷いてくれたことで、マリアに返事をする。 「はい、喜んで」 「じゃあ、今日は張り切って作らないとね」  マリアの後に続いて彼女の家に入ると、適当に寛いでいてと直たちに伝える。 「そういえば、直ちゃんの袴はどうだった? サイズは大丈夫だったかしら」 「はい、大丈夫でした。十二階にマリアさんが来なかったのは珍しいなって思ってたんですが、お仕事が忙しかったんですか?」  依頼相手の採寸となると今までマリアはメジャーを持って十二階まで訪れていた。しかし、今回は来なかったことでよほど、忙しかったのかなと直は思っていたところだ。 「ええ。白鳥家から花嫁衣装の依頼を受けていたのだけど、文句ばっかりだから、もぉ大変で! いくらお銭が良くても引き受けるんじゃなかったわ」 「白鳥家」  マリアと会ったのは偶然じゃなかったのかと、兄さまを睨みつけるが、彼は意味深に笑うだけだ。自分のご飯が食べたいからと連れ出されたが、マリアに会うことを予想していたのかもしれない。  同じことをマリアも思ったのか、意味深に笑う。 「狐ちゃんってば、直ちゃんになら、私がお客様の情報でもペラペラ喋ると思って一緒に来たんでしょう? 嫌になっちゃうわ」  塩鮭やがんもどきの煮付け、具沢山の味噌汁などを、直たちの前に出すと、マリアも目の前に座る。 「それで、狐ちゃんたちが聞きたいことはなぁに?」 「浅野家のことを知ってるか?」 「急に依頼の取り消しがあったお家ね。高い口止め料を貰ったから、うちとしては損はなかったけど。なにか問題があったのかしら」 「依頼の取り消しの際、なにか言っていたか、思い出せる範囲で聞かせてほしい」  マリアは思い出すように唸ると、『そうね』と口を開く。 「実は浅野家じゃなくて、白鳥家から言われたのよ。必要がなくなったって。その損失も兼ねてってことで、白鳥家のご令嬢の花嫁衣装を依頼されたの」  白鳥家もキヨはいないと知っていたのか、兄さまと直は顔を見合わせる。 「マリアさんはおふたりと会ったことはあるんですか?」 「ええ。何度か採寸に来て貰っていたから。勿論、あるわよ」 「そのとき、気になったことはあるか?」 「そうね。白鳥家のお嬢さまは浅野家のお嬢ちゃんが大好きなのねってことと、白鳥家のお手伝いとして来ていた子が浅野家のご令嬢を知っているのかしら、ってことくらいかしら?」  兄さまがなにかを考えているなか、マリアに直は気になったことを尋ねてみる。 「マリアさんはどうして、知り合いだと思ったんですか?」 「目ね」 「目?」 「私も客商売だから色々な人と会うんだけど、どんなに自分で表情を制御することは出来ても、案外、目には感情って出てしまうものなのよ。三郎だったかしら? あの子、浅野家のお嬢ちゃんをみた顔は真顔でいたけど、目がどろどろだったの。こんなところで参考になったかしら?」 「ああ、ありがとう。マリア」 「……狐ちゃんが私にお礼を言うなんて、明日は雨でも降るのかしら。まぁ、いいわ。温かい内に食べちゃいましょう」 『いただきます』と皆で手を合わせるとマリアの料理を堪能して、日が落ちる前に直は兄さまと家を後にする。 「直は自分の家に帰るのかい?」  兄さまに聞かれて、直はどうしようかと思う。久しぶりにひとりではなく、皆で食卓を囲んだことで人恋しい気持ちだ。 「兄さまが寂しそうなので、今日は兄さまの家に泊まってあげます」 「そうか」  兄さまの家に足を踏み入れると、足の踏み場もないことに直は唖然としてしまう。直が暮らしていたときは、床に本や洗濯物が積み重ねられていたことはなかったし、台所には洗っていない食器をためたことだって、一度もない。  後ろで佇む兄さまを、直は睨みつける。 「な、なんですか! この汚部屋は‼︎」 「いやぁ。だれも掃除をする者がいなくて」  直がひとり暮らしを始めてから、通いの奉公人すら雇っていなかったらしい。ワンコさんが職場に泊まって家に帰っていないのなら、兄さまのところに戻ればいいと話していたのも、この部屋の惨状を知っていたからだろう。 「……帰り」  帰ると口にしようとしたものの、部屋の酷さが気になって、夢にまでみてしまいそうだ。直は見知った棚から掃除道具を取り出して、割烹着を羽織り布巾を頭にすると、兄さまにもごみ袋を押しつける。 「さっさと片付けて、寝ますよ‼︎」  部屋の塵を片付けていく直に兄さまがポツリと呟く。 「私は直がいなくては、すっかり駄目になってしまったなぁ」 「いつまでもぼくが兄さまの面倒を見られるとは限らないんですから、しっかりしてくださいよ」  直が含んだ言葉の意味など、兄さまはお見通しだろう。兄さまから預けられた真名を破壊すれば、元いた世界には帰れるかもしれないが、この世界を自分が壊すことになってしまう。  直は自分がどちらの世界にいたいのかが分からない。  元の世界は家族や友人がいたが、もう顔すらぼやけてしまった。異世界だった此方の世界の方が、大切な人たちが増えてきたくらいだ。  妹を神子にしたいと叔母たちに言っていたらしい母は、彼女をこの世界に送るため、父や親戚たち抜きで祭に行ったのではないだろうかと、あの日の母の様子を思えば考えることもあったが、今となっては分からない。  そのこともあり、直が元の世界で気になると言えば、妹のことだけだった。元の世界に帰りたいと思えば、彼の異質とは関係なしに、真名を壊してしまうかもしれないのに、自分に真名を預けている兄さまの気持ちが、直には分からない。 「そうだね。今日は疲れたなぁ。途中だけど、私は先に休むよ、おやすみ」  自分の傍を通るときに、直の思うままにするといいと囁かれ、持っていた箒の持ち手の部分を両手で握った。  翌朝。さすがに兄さまでも気まずかったのか、彼は先に家を出ていた。卓の上には朝ごはんとお弁当が置いてある。彼が直が幼いころ、あえて家事を任せていたのは、『自分はこの場所にいてもいい』ということを、彼なりに示してくれていたのだと知り、情けなくなってしまう。  皿に置かれている綺麗に巻かれた卵焼きを見て、直はあえて形を崩して食べる。未だ、直は巻くことを苦手としてるのに、兄さまが作れば崩れていないことに悔しくなった。朝ごはんを食べ終え食器を洗っていれば、いつの間にか登校する時間になっていた直は慌てて、兄さまの家を出る準備をした。  家から出たのはいいものの、女学校で兄さまに会ったら、どんな顔すれば分からないという思いから、学校とは逆の方向へと向かって歩き出す。職場に行けば、学校に行っていないことにワンコさんたちにも心配をされるだろうと、あてどなく歩いていると見知った姿をみる。 「三郎さん?」 「直さん? 女学校は?」 「あっ。えーと」  直が女学校をサボって歩いていることが分かったのか無表情な顔が少しだけ、笑ったようにみえる。 「な、内緒にしてください。あの、今日は久子さまは?」 「今日は旦那さまにおやすみを頂いている日なので、他の者がお嬢さまの担当なんです」 「おやすみのところ声を掛けて、すいません」 「いいえ」  彼はいいことを思いついたように、直にある提案をしてきた。 「直さん。お暇でしたら、少しだけ、私に付き合ってくれませんか?」 「? はい、ぼくで良ければ」  彼に対する情報収集だと思えば、学校をサボってしまったという罪悪感も薄れるだろう。どうして、三郎が自分に声をかけたのか分からないものの、直は頷く。  三郎の見目がいいせいなのか、彼に視線が集まり、直はつい背が縮こまってしまう。兄さまと歩いている時は、先に兄さまを見てから直を見られる為、微笑ましい目か、同情めいた視線を送られることが多いが、今は女学校の袴姿である為なのか、なんであんな平凡な女と一緒にいるのかという目で見られて辛い。  三郎が直を連れて来た場所はカフェであった。店員に席を案内されて、メニューも見ずに彼は注文をする。 「私が頼んだもので良かったですか?」 「あの、アイスクリンって高価なんじゃ」  一度、夏の暑さに負けて、元の世界と同じ感覚で、兄さまに『アイスクリームが食べたい』とねだったところ、何故か、ワンコさんも伴いカフェに連れて来られた。   兄さまは直のためにアイスクリンを頼んでくれたが、ワンコさんは忙しい時期にも関わらず、仕事の合間をぬって、カフェに連れて来られたのか分からないような顔を始終していた。しかし、珍しい、兄さまの気遣いだと思ったのだろう。会計時までは三人で穏やかな時間を過ごした。会計時になると兄さまは一言も言わず、直を脇に担ぎ、ワンコさんに後はよろしくとだけ言い残し、カフェからとんずらした。  じょじょに怒りの為に真っ赤になっていったワンコさんの顔は忘れ難い。その後、死ぬほど、仕事でこき使われたと兄さまは嘆いていたが、あれは兄さまが悪いと今でも直は思っている。  彼からアイスクリンの代金を支払えと請求をされても、持ち合わせがない為に支払うことが出来ない。顔が青白くなっていく直に、三郎は首を振る。 「ここは誘った私が支払うので気にしないでください。昔、姉さんに私の給金が貯まったら、アイスクリンをごちそうするという約束していたんですが、姉はもういなくなってしまいましたので」  カラン、とコップに入っている氷を鳴らして、三郎は感傷なく告げる。  店員が自分と三郎の分のアイスクリンを持ってくると、直は久しぶりの味に緊張していたことも忘れて、頬が緩んでしまう。 「ぼくとしては美味しいものを食べられて良かったってなりますけど、三郎さんはお姉さんの代わりが、僕で良かったんですか?」 「姉、清子なら自分が亡くなったら『私の代わりに誰かと食べなさいよ!』って言うだろうと思って、誰かと一緒に食べたいと思っていたんです。ただの自己満足にすぎませんが」 「大切な人だったんですね」 「どうでしょう? 血は繋がっていなかったので、あちらは私のことをどう思っていたのか。直さんの学校でも、姉妹のような関係があるようですが、清子にとっては私のことも、そんなごっこ遊びの延長だったのかもしれません」 「その気持ちは分かります。ぼくも考えたことがありますから」 「……誰かと、喧嘩でもしたんですか?」 「ええ、まぁ」  気まずくなって、溶けかけたアイスクリンを口にすると三郎は思い出すように口にする。 「大切な言葉は後悔しないように伝えた方がいいですよ。いくら自分たちが花になって遺せるとは言っても、いざ花を目にすれば相手の気持ちが分からなくなるということもあります」 「分からない、ですか?」  花に姿を変え言葉を遺すことはどうなのか、という口ぶりで三郎は続ける。 「清子もそうですが、両親のこともです。久子さま付きになるまえに、私は火事で両親を亡くしましたが、あれだけ私に興味がなかったふたりなのに、私に遺された言葉はこれからひとりになってしまう私への心配だけでした」 「言いにくいことを聞いてしまってすいません」 「いいえ。私から、お話したことですから」  久子さまの傍にいるときの三郎は棘を纏っているように感じたが、今の三郎には直に対する悪感情を感じない。アイスクリンを食べ終えたあと、ふたりはカフェの前で別れた。  兄さまと三郎のことを考えて、最近は睡眠不足気味になっていた直は陽の光の眩しさに飛び起きると、壁にかけている時計を確認する。まだ目覚まし時計は、この世界にはない。皆、陽の光で起き、夜も深くなれば眠りに就く世界で、昨日の直はつい布団でごろごろしてしまっていた。 「ち、遅刻だ‼︎」  急いで袴に着替え、髪を適当に結くと、走って女学校の校門が閉められてしまうギリギリの時間に滑りこむ。 「きゃっ」  慌てていたためか、直はひとりの小柄の女生徒とぶつかってしまう。バタバタッと本が落ちていく音がすれば、彼女は持っていた本が廊下へと広がっていた。  女生徒がしゃがみこんで本を拾うのと一緒に、直も本を拾いながらも彼女に直は謝る。 「ごめん。前を見てなかった」  「いえ、私も前ばっかりを気にしていたので」 「半分、持っていこうか?」  「大丈夫です。そろそろ、本鈴が鳴りますけど」  平気ですか? と言外に尋ねられて、直は再度、謝って、その場を立ち去ろうとしたが、花の絵柄が描かれた栞が目につき拾う。きっと、あの女生徒が落としてしまったのだろう。呼びかけようにも、女生徒の姿は既に消えていた。  一つ目の鐘の音に、栞を自分の鞄へとしまうと、すました顔をしながらも直は自分の教室へと入った。  昼休み。芳子に誘われた直は、栞の落とし主に関してなにか知ってはいないかと、彼女に栞を見せる。 「芳子さん。この栞に心当たり、ないかな?」  彼女は図書館にいた先生とも親しそうだったし、栞を落とした持ち主について知っているかもしれないと見せたとき、いつもは朗らかな彼女の表情に嫌悪が混ざる。 「芳子さん?」 「あっ、ごめん、ごめん。嫌なこと、思い出しちゃって。まだ流行ってたんだ、それ」  流行ってるという言葉に、直は小首を傾げた。 「私たちは亡くなったら、花になるでしょう? 今、姉妹を契りあっている子たちは、大人になったらお姉さまの前では花にはなれないって分かってるからって、栞に花を描いて渡すのよ」  直にとってはまだ、可愛らしい行為だと思うが、どこかで引っかかる。 「もしかして、前にいた先輩たちの真似をして」 「そうそう。だから、あんまり、いいイメージが私は持てなくて。キヨも久子さまに、作ってくれないかってお願いされてたけど」  キヨさんとは仲が悪いんじゃなかったのかと考えていると、彼女はゆっくりと口を開いた。 「あっ、キヨとは仲が悪かったんじゃないかって思った?」 「そ、そんなこと」 「ふふふ。直さんはキヨとは違って、顔に出やすいんだな。いくら、そっくりでも、やっぱりあなたはキヨとは別人だ。キヨとは学校ではわざと喧嘩をして絶交したって演技をしてたんだよね。久子さまに絡まれても困るし」  えくぼを作ると芳子はキヨのことについて改めて、話してくれる。キヨと芳子が表向き、仲違いをしていた振りをしていたのは、久子に理由があったそうだ。 「いくら私が彼女に『キヨとは親友以上の仲ではありません』って言っても信じて貰えなかったんだよね。恋する女が怖いってこういうことかと思ったよ」  久子の嫉妬が災いして、芳子の父の事業が立ち行かなくなったり、自分には勿体ないと思う縁談話まで家に持ちこまれたということが、度々、あったという。そのたびにキヨが久子に頭を下げて、どうにかしていたらしいのたが、久子からすれば憎い恋敵を、とっとと目の前から追い出したかっだのだろうと芳子は口にした。  久子のことで、自分よりもげっそりとした表情を浮かべ疲れている様子のキヨに対して、芳子は絶交の振りをする提案をしたらしい。 「『私達、別れよう?』って言ったときのキヨの顔は見ものだったな。『いや。そもそもあんたとは、つきあってないよね?』ってすぐに突っこんできてくれたし」 「キヨさんってどんな人だったんですか?」  何人かに話は聞いているものの、未だ、『キヨ』という人が直にはどんな人なのかが、浮かびあがってはこない。 「『万華鏡』みたいな子。どんな相手でも、キヨは合わせられるから、一緒にいる相手はキヨ依存になっちゃうんだよね。キヨもお家の方から、久子さまとは仲良くしろって言われたから、妹の振りをしてるけど、本当は彼女から逃げたいって話してた」 「どうして、ぼくにキヨさんの話を?」  久子はキヨとの仲を誰にもいうつもりではなかったんだろう。それでも、直にキヨとのことを話した。 「私も誰かに言いたかったんだよね。本当は、まだキヨと仲良しだよって。キヨもさ、久子さまに話すべきだったんだ。『自分には大切な人がいます』って」 「キヨさんには芳子さんの他に仲良くしてる人がいたんですか?」 「みたいだよ。花の栞を見て嫌だなって思うのは、キヨが大切な人に会えるって嬉しそうにしていたことを、思い出すのもあるんだよね。もしかしたら、その人がキヨがいなくなったことに関係してるのかなって」 「キヨさんから、聞いてたんですか?」 「私にしか話せなかったんだろうね。図書館に学園史があるのは知ってる? そこに入れた本の栞で連絡をとり合ってたみたい。『死ぬときにはね、この花になりたいんだ』って見せられたから覚えてる。ろくでもないこと言うなって大喧嘩して」  そのあとにキヨはいなくなり、芳子とも仲直りが出来なかったのだろう。聞くことの残酷さを知りつつ、直は芳子に問いかけた。 「その花、覚えてますか?」 「えっと、なんだったかな。あっ、そうだ。『勿忘草』だ。直さん?」 「す、すいません、芳子さん! このあとの授業は欠席すると先生に言っておいてくれませんか?」 「う、うん、分かった」  芳子は直の勢いに頷く。彼女と別れると、直は十二階に足早に向かった。  職場に繋がる店の主人が持っているコップに、棚から取り出したある銘柄の酒を注いでいく。そうすれば職場に繋がる扉とは異なり、今まで起こった事件が纏められている部屋が開かれる。あまり、使われていない部屋だからなのか、埃っぽさに、直は咳こみつつも棚を探していく。  過去、事件があった新聞記事が纏められているファイルを手に取ると、ある人の歳を逆算して割り出して、その年代の記事をみれば、直の予想は当たっていた。 『放火か⁉︎ 研究者として有名だった蕗谷氏の屋敷が燃えたと、近隣住人からの通報があった。残念ながら、蕗谷氏と御夫人と共に焼死。息子は行方不明』  以前、ワンコさんが話していた慈善家の被害者たちの名前も調べてみれば、『清子』の名前も記載がある。  扉の叩く音にそちらを直がそちらに顔を向ければ、ワンコさんが扉に背を預けていた。 「ワンコさんが書庫にくるなんて珍しいですね」 「あいつに泣きつかれたんだ。直が反抗期だってな」 「……反抗期ですか」  兄さまからしてみれば、直との仲違いの理由は反抗期に分類されてしまうらしい。 「仲直り、出来ないのか?」 「ワンコさん。僕、まだ迷ってるんです。この世界にいるか、元の世界に帰るか」 「そうか」  直が元の世界に帰るということは、この世界を壊してしまうことになるのに、ワンコさんの返事は兄さま同様、呆気ないものだ。 「ワンコさんも『帰らないでくれ』って言わないんですね」 「直はおチビの頃よりは成長したと思ったが、まだまだ、お子さまだなぁ」  ワンコさんの楽しげな言葉に、直は頬を膨らませる。ワンコさんを含め花影の皆の歳は分からないが、孫のような態度で直を扱う。 「あいつに『帰らないでくれ』って言われたかったんだろう? お前も知っているが、俺よりも――の方が、人間の感情に疎い……って、直?」  ワンコさんの思ってもいなかった言葉に、直は顔はじょじょに赤くなっていく。これでは、彼の言っている通り、拗ねているのと変わりない。ワンコさんは直が恥じらいを覚えた理由に気づくと、意地悪そうに唇を上げる。 「俺で良ければ言ってやろうか? あっー、直、帰らないで……」  直はワンコさんの面の口を両手で塞ぐが、これは意味があるのだろうか。 「ふたりして楽しそうじゃないか」  少しだけ、不満を混えた声の方向をみれば、つまらなそうな顔をしている白い狐の面と目が合う。 「……兄さま」  ほらっ、とワンコさんに背を押されて、直は首を上に上げる。 「あの、兄さまは、ぼくが元の世界に帰ったら、寂しいですか?」  どうして、そんなことを聞かれるのかが分からないように、兄さまは小首を傾げた。 「寂しいけれど。それがどうしたんだ?」  直がワンコさんの方を向けば、呆れたような顔をした。 「なぁ、兄弟。未だに人というものが、分からないようだな」 「――になら分かるのか? 直、言いたいことがあれば言ってくれ。私は言われなければ、お前がどうしたいのかまでは分からない」 「兄さまは、元の世界にぼくが帰る選択をすれば、兄さまの真名を壊して帰るということは知ってますよね?」 「ああ」 「兎さんも言っていましたが、兄さまとワンコさんはこの世界にとっての特別な役割があります。兄さまの真名をぼくが壊すことは、この世界を壊してしまうことと変わりないのに、どうして、帰るなと言わないんですか? 世界が壊れてしまうかもしれないのに」 「私はこの世界を大切にしてない管理者だからな」 「は、はい⁉︎」 「上司から任されてはいるから管理はするが、壊れたなら壊れたで、私は仕方がないと思っている。どの世界にも言えることだが、始まりがあるからこそ、終わりも存在する。私からしてみれば、私の周りにいる人が安穏で過ごす為に、こんな面倒なことを引き受けているわけだ。だから、直にも好きにしろと言ったんだよ」  なにか自分は間違っていることを言ったのだろうかと不安げにこちらを見てくる兄さまに対し、兄さまの代わりに自分がこの世界の人々を守らなければいけないという気持ちが徐々に湧いてくる。  兄さまの気まぐれで、自分の世界を見捨てられるなんて冗談じゃない。 「こういう奴だから、俺が――まで苦労をするんだ。こいつの本音なんて碌なもんじゃない」 「……兄さま、僕は帰りませんから‼︎」 「そう? 直が決意をしたのなら、私はそれを尊重しよう。そういえば、直はなにを探していたんだ?」  直は兄さまとワンコさんに、新聞の記事を見せる。 「兄さま。慈善家事件の被害者だった『清子』さんって、女学校の『キヨ』さんと同一人物だと思うんです」  兄さまに直は自分が思いついた仮説を口にする。  まず、蕗谷家で火災の事件があった。その後、行方不明になっていた蕗谷少年は慈善家の家に引き取られるが青年が自分たちを逃してくれたことで、清子や他の子達と一緒に脱出する。  その後、詳しい経由は不明だが、清子は名前を『キヨ』に変えて浅野家に。蕗谷少年も白鳥家に仕えることになった。 「なるほど」 「なので、三郎さんが今回の件に関係あるとは思うんですが、薬の件までは分からなくて」 「簡単じゃないか。三郎に話して貰えばいい」 「はい⁉︎」 「直のことだ。彼を呼ぶ為の方法も分かっているんだろう? その方法で誘き寄せればいい」    女学校の図書室には芳子に聞いたとおり、カウンター近くにある棚の裏は人目にはつきにくい。棚の一番下姫は学園史が収まっている。その本に時間と会いたい場所を書いた花の栞を直は挟むと、兄さまと顔を見合わせた。  約束通りの時間に待ち合わせの場所にいた彼は、直と兄さまをみて、抑制のない声で告げる。 「探ってたのは、やっぱり、きみ達でしたか」 「白鳥家、久子付きの三郎と言ったか。お前に聞きたいことがある」 「いいですよ。ここでは目立ちますし、場所を変えましょうか」  三郎と共に誰もいない教室へと入っても、彼は逃げだす様子をみせない。彼は椅子に座ると、直たちにも椅子に座ることを勧めてきた。こっそり、彼を狐の窓でみても、彼の姿が変わることはない。 「私が蕗谷の人間だって知ったん来たんですよね?」 「三郎さん。あなた、ぼくが探っているのを知って、わざとぼくに教えたんじゃないですか?」  まさかと三郎は肩を竦めた。 「あなた達の方で大体の察しがついている通り、私とキヨ、清子は同じ家で育ったきょうだいのようなものです。兄さんから『逃げろ』と言われ、あの屑の家から逃れたあと、清子は浅野家の養子となり、私は久子さま付きとなりました」 「どうして、女学校で薬を流通させたんだ?」 「金が欲しかったからですよ。これ以上の理由がありますか? 清子に薬を売っていることを知られて、私が彼女を殺めました」  三郎は両手首をつけると、兄さまの方に手をやる。 「犯人は私です。どうぞ、捕まえてください」  淡々と口にする三郎に兄さまは首を振った。兄さまも三郎が本当のことを話していないと判断したのだろう。 「あの、三郎さん。芳子さんってご存じですか?」 「あぁ、あのうるさいご令嬢ですか」 『彼女がどうしたのか』と問いてくる三郎に芳子から聞いた、キヨには久子以外に大切に思う人がいたのだと話す。大切な人とは、彼、三郎のことだったのではないだろうか? 「嘘を言わないでくれますか? 清子にとって大切なのはお嬢さまですよ?」 「でも、芳子さんはキヨさんは久子さまの行為を迷惑に思っていたと言ってました」 「嘘だ‼︎」 「……三郎さん?」 「屑同様、俺の血を使えば他人の命を死にやれることが分かった白鳥家は、俺を使って学内で商売を始めやがった。あの女は助けてくれるどころか、久子に媚を売ったんだ。俺は『助けて』って、あいつに言ったのに」 「やっと、面白い話が聞けたね」  兄さまは口元を綻ばすが、それが彼の癇癪に火をつける。 「面白い? 直、そいつの血は青いのか? 結婚が決まったっていう清子は、彼女を詰る久子の前で、俺が使われた薬を取り出した。そして、久子と取引をしたんだ。『だったら、あなたの物になるから、俺を家から解放して』って。あいつが遺したのは、よりにもよって勿忘草だ。それを見た久子は可笑しくなって、それを喰ったよ。アハハ! なにが忘れないでねだ」  目から涙を流しながらも、三郎はなにかを呟いた。 『忘れられたら、よかったのに』  唇の動きで彼の言葉を直が読み終えると、彼は虚空をみつめて綺麗な笑みを浮かべる。咄嗟に直は兄さまの名前を口にした。 「兄さま!」  自分のズボンのポケットの中から小瓶を取り出し、口にしようとした三郎の手を、もとの姿に戻った兄さまが喰らいつく。小瓶を落とし、自分の手があった場所から血が流れることも気にしないで三郎は直を睨みつけた。 「どうして、清子のところに行かせてくれないんだ!」 「だって、彼女は三郎さんに『忘れないで』って言ったんだろう?」 「……ああ」 「だったら、三郎さんが生きて、彼女を覚えてなくちゃ駄目だよ」  真剣な表情で伝える直に、三郎は乞う。 「なら、ひとつだけ、お前に頼んでもいいか?」 「ぼくにできることなら」 「『生きて』って言ってくれないか?」  思いもよらない願いに瞬きをすると、三郎に清子の想いが伝わるように、直は告げた。 「生きてよ、三郎」 「ああ、姉さん。俺は姉さんの分も生きるよ」  兄さまはまずいものを喰らったように、ペッと三郎の 手を吐き出した。 「おいっ、小僧。十二階に急ぐぞ。まだ、お前の手は繋げられるし、詳しい話を聞かなくちゃいけない」 「……分かりました」  青白い顔をしながらも、三郎は頷いた。  兄さまの部下に医療技術に優れた隊員がいるらしい。三郎は彼の手によって縫合されると、以前のように動きにくくはなったものの、手を失うことはなかった。  後日。兄さまから聞いた、三郎が語らなかった話だ。   研究者であった三郎の父は息子の血液が普通の子とは違うことに気づき、その血液を医療に利用出来ないかと考えたらしい。彼の研究内容に興味を抱いた白鳥家が研究内容に多額の額を投資する。  研究を進めていく内に、三郎の血液から作られる薬は医療を発展させるどころか、人を死なせる毒薬だと気づいた父は放火に見せかけて、研究内容の全てを燃やしてしまった。  しかし、息子は一緒に殺めることが出来なかったらしい。その後は三郎の語った通り、慈善家の家で生活をしたあとで、三郎を探していた白鳥家に引き取られる。  白鳥家の当主から父に研究費用として、莫大な金を渡していたことを聞かされた三郎は薬を作ると当主に渡し、女学校でも借金を減らす為に、薬を欲しい生徒がいれば栞のやりとりで渡していたらしい。  慈善家から別々に逃げたたあと、三郎は清子がどうなったのかは知らなかったが、女学校で『キヨ』として再び、出会えば図書館の栞を使って、会っていたということだった。 「じゃあ、久子さまがキヨさんを好きだったっていうのは」 「三角関係だな。三郎はキヨが久子のことを愛したからこそ、自分を裏切ったと思ったらしい。キヨは三郎のことを思って、独占欲の強かった久子のことを好きな振りをしていた」 「キヨさんの結婚相手は?」 「歳の離れた相手の後妻だったらしいな。そのこともあり、ふたりの前でキヨは薬を飲んだのかもしれないが、彼女がいない今は推しあてるしかない」 「……久子さまはどうなるのでしょう」  自分でキヨを食しながらも、彼女がいなくなったと思っていた彼女だ。キヨがいなくなったとき、彼女の心も壊れてしまったのだろう。 「婚約破棄をして病院で静養するらしい。白鳥家にもなにかしらの沙汰があるだろう」 「そうですか」  今回の事件でよかったことは、兄さまが変質しなかったことだけだろう。三郎が自分に大切な言葉は伝えた方がいいと言ったのは、自分のことがあったからなのかもしれない。 「兄さま。ぼくは亡くなっても、花にはならないですよね?」 「直はあちら側の人間だからな。こちらの人間とは違って、なにも残らない」 「そうですか」  もしも、直が元々、この世界の人間で兄さまに花となって言葉を遺せるとしたら、どんな花になるのだろうと考える。 「花言葉なんて信じていなかったんです。だって、言いたい者勝ちじゃないですか。けど、今は最期のときに言葉を遺せるこの世界の人々を少しだけ、うらやましく思います」 「……そうか」 「だから、花になって遺せない分、兄さまとはたくさん、話さないといけないと思うんです。例えば、この請求書のこととか」  直が兄さまに請求書を見せると、彼の目は泳ぐ。ワンコさんから今回の経費だと兄さまから渡されたと言われたが、なにか知っているかと渡されたが、直はこんなにお金を使った覚えはない。  自分がみていない間に、兄さまが散財したのだろう。 「新作の私に似合いそうな服が売っていて」 「……兄さま」 「それに」 「兄さま!」 「わ、わかった。――には、私の給与から差し引いてもらうように伝える」 「ぼくが見張ってないと、本当に兄さまは駄目になりましたね。兄さまがだらしないせいで、ぼくはこの世界に残るんですからね?」  元の世界に帰りたいと思う日もあるかもしれないが、直は兄さまと事件を解決しながらも、こうした何気ない日々を過ごしていくのだろう。  その場に佇んでしまった兄さまを、直が振り返れば、彼の唇が綺麗な弧を描いた。
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