【番外編】最近もう喧嘩しない

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【番外編】最近もう喧嘩しない

「ナットタウンの橋梁よりヒルストリートの橋の補修を優先。ナットタウンの補修伺いを出したモーガンは今日中に納得のいく弁明を提出。以上」 「ちょっと待ってください!ヒルストリートは貧民街に程近い橋ですよ?!」 「だから何だ?そもそもナットタウンの橋梁は壊れてないだろう。一体どこに金を掛ける気だ?」 「住民の要請で街灯の増設を……今月だけで窃盗被害が八件、」 「ヒルストリートは把握出来てるだけでその倍以上だ。とは言えナットタウンに関しては街灯のせいだけではなく、警邏の怠慢も原因の一つだな。奴等は日が暮れて以降詰め所から一歩も出ずカードゲームに飲酒と何かと忙しいようだ」 「な、なんですと?!」 「お待ちを!そんなものはデタラメだ!一体何を根拠に……」 突如槍玉に挙げられた武官の代表が目を剥いて反論する。さっきまでは偏屈の上に退屈を貼り付けた表情を隠しもしなかったのに今は顔を赤黒く染め狼狽えている。それも当然、この男も当事者の一人だ。レティシアは嘲笑に唇を釣り上げた。 「この眼で、見た。と言っても信じないだろうな。安心しろ。調査は既に終了し、軍隊長殿にも報告済みだ。今更貴殿の手を煩わせることは何もない。明日にも配置換えだ」 祝賀会での大立ち回り以来レティシアは非常に忙しい日々を送っていた。手に入れた体力と戻ってきた体調を利用し、自らの足で仕事終わりに街を歩き始めたのは上がってくる報告書の全てが信用出来なかったからだ。そうして己の目で確かめた街の様子と過去から現在までの報告書を照らし合わせた結果、無意識に零れた舌打ちの数は三桁に突入しているかもしれない。 こうした地味な努力で積み上げた実績はやがて功績になり、レティシアの地位をより強固なものにする。 周囲からレティシアに向けられる感情の多くは畏怖だ。次に断罪されるのは自分かもしれないという恐怖により、レティシアは不正と怠慢を抑制することに成功していた。 「一体何なんだあの男は!!!」 「元王宮魔術師候補で現在は国の中枢を担う文官の最高幹部でガルド隊長の配偶者です」 「そんなことは知っている!!そのガルド隊長はどうしたんだ?!」 「北の砦へ魔獣の討伐に出掛けた為本日の会議は欠席されてます」 「なぬ、なら戻ってくるのは早くても明後日……」 「既にお戻りになられてます。先程報告書を上げられ、序でに言えばもう退勤されてます」 「早過ぎるわ!!魔獣は一体どうなっておる!?」 「殲滅。ガルド隊長は、ただのトカゲくらいで一々俺を呼びつけるな、とご立腹です」 「サラマンダーをただのトカゲ呼ばわり!?し、しかし奴等は群れで現れるだろう?それを殲滅って、……お一人でか?」 「移動は転移魔法、単身での討伐だそうです」 「ほげ……、」 報告を聞いた事務官の男は思わず白目剥きそうになった。異常だ。ブロンドにエメラルドグリーンの瞳の派手な色彩を持った精悍な男の顔を思い浮かべて思わず深い溜め息を吐いた。 「この二人が婚姻関係にあるなど……!何を企んでる!国家転覆か?!」 「声を抑えて下さい。滅多なことを言うと此方の立場が危うくなる。……それはそうとこの二人は意外にも恋愛結婚だと聞きましたが」 「そんなたまじゃないだろ二人とも!!」 「先日行われた祝賀会では深い口付けを交わしながらその場からエスケープしたとか」 「子供じゃないんだ、ビジネスの上で接吻など誰とでも出来るだろう。私もあの二人となら出来る」 「……気色の悪い発言は慎んで下さい」 周囲の疑念の目を他所に、当事者である問題の二人は帰宅早々シャワーも浴びずに既にベッドの上で一戦交えた後だった。 「……腹減った」 「悪い。抑えが効かなかった」 「サラマンダーの群れをブチ殺した後だからか?今は繁殖の時期で常より凶暴だったろ。怪我の一つでもしてりゃ慰めてやろうかと思ったのに面白味のない奴だ」 「褒め言葉として受け取っておく」 再び覆い被さって来ようとしたヴァルターを足蹴にして、レティシアはガウンを羽織り立ち上がった。 「甘いもん食いたい」 「甘いもの?珍しいな。普段そんなもの口にしないだろ」 「馬鹿が多くて疲れるんだ」 「悪いけどうちにそんなものは、」 「キッチン借りる」 もうここは二人の家なのにレティシアは偶に他人行儀にこんな言い回しをする。キッチン借りる、風呂借りる、これを言われる度にヴァルターはちょっとムッとするのだが当の本人はどこふく風である。 「キッチンつっても砂糖くらいしか……」 「フジコに貰った」 「フジ、誰だ?」 レティシアはヴァルターの質問には答えなかったが、手にしていたものを見て全てを察した。読めない文字で書かれたやけに綺麗な赤い箱。 裏路地の奥で怪しい露天を広げ商売してる女性の派手な化粧を思い浮かべながらヴァルターは苦笑した。レティシアはあの店のお得意様なのだ。 「菓子でも買ったのか?」 「そ、魔法の粉」 「頼むから非合法なものは持ち込まないでくれよ」 ボールに泡立て器に計り、そして何もない空間から徐に取り出した鶏卵をレティシアは片手でボールに割り入れた。それを見てヴァルターは目を瞬かせる。魔力の元はヴァルターなのにレティシアはヴァルターとは全く異なる力の使い方を知っている。原理は不明だが必要なものをいつでも取り出せる亜空間のようなものを作っているらしい。一度魔力が失われたからといって天才が凡人になるわけではないのだと当たり前のことに感心する。 カシャカシャと手際良く卵と牛の乳を混ぜ合わせ、そこに件の謎の粉を加えまた軽く混ぜる。 ヴァルターはレティシアが料理を作るのを眺めるのが好きだった。細い肩に顎を乗せ覗き込むと「邪魔」と吐き捨てられたが振り払われはしなかったので、背中に張り付いたまま動かなかった。 「砂糖は入れないのか?」 「入れなくても味ついてるんだと。だから魔法の粉」 レティシアが温めたフライパンに生地を流し込む。何だかひどくゆっくりとした時間だった。数分もしないうちに甘い匂いが部屋に立ち込める。生地が焼けてる間にレティシアはお茶の準備を始めていた。それを横目にヴァルターがフライパンの中をぼんやり眺めていると、生地の表面にプツプツとした泡が浮き出て来た。 「……これと似たようなのを見たことある」 「まあ単純な菓子だからメニューとして出してる店くらいあるだろ。フジコはホットケーキって言ってたな。そろそろひっくり返して」 ヴァルターは生まれてこの方調理などしたことがない。その必要性を感じたことがなかったからだ。フライ返しを手にしながら、失敗しそうだと一時停止。魔獣を殲滅するよりもホットケーキを焼く作業の方が難しいと眉間にシワを寄せる。 「はは、貸してみろ。不器用め」 「うるさい」 あのレティシアと軽口を叩きながら夜半に菓子作りをするなど昔の自分には考えられない未来だった。しかしヴァルターにとってこうした時間が今は何より愛しいのだ。 無防備に晒されたレティシアの白い首筋に不埒な衝動が呼び起こされるのを何とかやり過ごす。湯気を立てながら皿に重ねられたホットケーキの甘い匂いに、ヴァルターはどうにか性欲を食欲に切り替えた。 「好みでバターと、こっちはメープルシロップ」 「メープル、?」 「カエデの木の樹液らしい。これもフジコから買った。甘いから馬鹿みたいな量掛けるなよ」 まるで子供を嗜めるような言葉にヴァルターは笑いをかみ殺す。レティシアは人にはそう言いながら自分はメープルシロップとやらには手を付けず少量のバターをキツネ色の生地の上で溶かし、ゆっくりと一切れを口にした。それに習うようにヴァルターも切り分けたそれを口に運ぶ。途端にほの甘い香ばしさが口に広がりそこで漸く自分が空腹だったのだと気付いた、そうすると止まらなくなった。 二口目はメープルシロップとやらをひたひたに染み込ませてその上にバターを。口に含むと芳醇な甘さが鼻に抜け、バターだけよりメープルシロップを掛けた味の方が好みだった。同じようにしてまた一口。 レティシアがホットケーキに合わせて淹れたのは珈琲ではなく、柔らかい香りの紅茶だ。それを飲むと口の中がさっぱりとし、幾らでも食べれそうだった。 「疲れてるときって、甘いもんが美味く感じるよな」 「……ああ」 ヴァルターとレティシアの普段の姿を知っている人間にこの二人は夜中にホットケーキを焼いてお茶を楽しんでいると伝えて、果たして一体何人がそれを信じるだろうか。 全く、どうかしている。レティシアは思わずと言った風に小さな笑みを零す。俯瞰で見ると滑稽にも思えるが、この驚く程に静かで平凡な夜こそが二人の日常なのだ。 ただまあ、悪くはない。レティシアはこの地味な生活をそれなりに愛していた。ホットケーキひとつまともにひっくり返せない目の前の男のことも。 「フジコにお前でも作れそうな菓子がないか聞いてみようか」 「初めてでちょっと戸惑っただけだ。次は上手く出来る」 「そりゃ楽しみだ」 end.
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