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王宮騎士の幸福
レティシア・エインズワースが帰還した。
その話は瞬く間に軍部や王城に広がり、それに付随する人間を俄かに騒がせた。
別に何処に行っていたわけではない。レティシアは何処にも行かず、静かに命の灯を揺らめかせながらずっと文官職を続けていた。
ただ、厚いローブに覆われて誰もその姿を見ていなかっただけで。
◇◇
レティシアと暮らすようになってから、寝ている時に呼吸をしているか確かめるのが習慣になった。息をしているか、脈があるか、身体が冷たくなっていないか、全て確かめても不安に苛まれて翌日の朝しどけなく隣に横たわる姿を認めて漸く詰めていた息を逃すのだ。
緩やかに波を打つ黒髪がサラサラとシーツに零れ落ち、長い睫毛に彩られた瞳が光の粒子を取り込んでキラキラと瞬く。
外見だけなら儚くて優美、しかしその実態はーーーー……
「……あ゛~~~~クソッ、せっかく悠々自適に無職生活を楽しもうと思ってたのに何で俺はまだ馬鹿正直に仕事なんてかったるいモン続けているんだ?よし、二度寝するか」
「……文官長に戻って来てほしいと泣いて乞われて了承したのはお前自身だろう」
「あ?ヴァルターのくせに俺の独り言に勝手に答えるとはどういう了見だ?殺すぞ」
寝起きのレティシアはいつにも増して口も態度も悪くその眼孔は悪鬼の如く鋭い。
白い手が苛々とナイトテーブルに置いてあるシガレットケースに伸び、そこから一本を取り出した。淡い色の唇がフィルターを咥えるのをバレないように目線で追いかける。魔力を使い、何もない場所から生まれた火をレティシアが翳せばゆっくりと紫煙が立ち昇り寝室が芳醇なブランデーの様な香りに包まれた。
レティシアの嗜むシガーは甘く蠱惑的だ。香りに反して味はスパイシーだと以前話していたのを聞いたことがある。まるでお前みたいだな、と口から出そうになった言葉を飲み込んだのはまだ記憶に新しい。
中身は鬼なのに悔しい事に玲瓏な美貌はちっとも翳りを見せず、寧ろ気怠げな表情の中に隠した色がチラついて見えた。
「……何ジロジロ見てる。俺が何故こんなに疲れてると思っているんだ?この絶倫が」
薄い唇から紡がれる下品な言葉に知らずゴクリと唾液を嚥下する。挑発する様な好戦的な眼差しにジワリと身体の芯が熱を持つが気付かないフリしてやり過ごす。飢えの様な、喉の渇きにも似たその感覚はレティシアと出会ってから今までもずっと感じているものだ。
夜色の眼は俺を視界に映したと思えば、次の瞬間にはもう興味を失ったとばかりに視線を外した。
……全く持って儘ならない。
「チッ、しょうがない起きるか。オイ、邪魔だ退け」
レティシアは喫いかけのシガーをそのまま俺の口に突っ込み、俺を足蹴にしてさっさと部屋をあとにした。
こんな扱いを受けながら困ったことに全く腹が立たない。俺はレティシアと暮らすようになってすっかり腑抜けになってしまった。
以前までの俺は毎日規則的に同じ時間に起床し、何も考えず隊服に袖を通し、そのまま寮の食堂に行くか、固形栄養食を水で流し込み仕事へ向かっていた。
それが今はどうだ。ベットに腰を下ろしたまま着替えもせずにレティシアの進む先を視線で追い、飽きもせずその後姿を眺めている。
そのレティシアが何をしているかというと何と驚くことにキッチンに立ち朝食を作っている。
これは夢か?空虚に向かい自問自答し幸福を噛み締めるのは最早毎朝の日課となっていた。
レティシアの最近の趣味は料理らしい。それも見たこともない異国の料理だ。
「別に食いたくなきゃ食わなくてもいいんだぞ」
憮然な顔でそう切り捨てるレティシアだが毎日ちゃんと俺のぶんも用意している。……好きだ。いや、何でもない。
レティシアの作る料理ははっきり言ってかなり美味い。最初は味が薄いような気もしたがレティシアにそれを言ったら「フン、なら辛いだけのスパイスの塊でも舐めていろ。貴様に似合いの食事だ」と一蹴された。クソ、好きだ。
しかし一つ突っ込ませて貰えば、キッチンに並ぶ調味料の数々はどう見てもこの国に存在しない物質で出来ている。
ガラスに似た透明な容れ物(かなり軽い)には謎の黒い液体、透明な袋(かなり丈夫)には茶色の泥みたいな物体、等々どう見てもヤバそうなもののオンパレード。
……偶にいるのだ。時空の壁をものともせず世界を行き来しこの国に存在しない物質を持ち込む人間が。レティシアが気付いてないわけがないが、何も言わないし危険はないようなので俺も黙認している。
というか買い物の荷物持ちに着いて行った時一度だけ見た。市場の奥の更に突き当たり、恐らく普通の人間は辿り着けないよう何らかの呪符が施されたそんな場所。そこに居たのは、
「今日はえらいもん持って来たで~。こんなん普段ウチの近所のスーパーには売ってへんのんやけどな、息子の嫁がお義母さんも良かったらどうぞぉ何てウチによこしてん。ほんまやったらお父ちゃんと二人で食い尽くすとこやねんけどあの人味の違いわからへんねん。食わしたっておもんないやろ?アンタこれ普通の顆粒ダシとはわけが違うで。何たってお取り寄せランキング三年連続一位!殿堂入りや。ほんまはえらい高いもんやねんけどな、まあタダでもろたしアンタにも分けたげよう思って。あ、アンタはタダちゃうで?ええとこっちの額やったら基本四掛けやから……」
実によく喋る女性である。こちらの世界では見たことない形状の服を着てかなり派手な化粧を施している。歳の頃は俺の母親と同じくらいかもっと上だろうか。どこからどう見てもどの角度から見てもこの国の人間ではない。
「言い値で構わない。あと、ショウユが切れそうだからそれも…と、米と…これは何だ?」
「麺つゆ言うてこれ一本でもごっつ便利やねんけどこれにポン酢とか混ぜてアレンジ効かしてもグーや」
「ではそれも貰おう」
レティシア、お前何て怪しい場所で怪しい人間から怪しい買い物をしているんだ。
と、思わないでもないが、悔しいことにこの日買った調味料で作られた料理はどれも絶品だった。
「俺はお前の作るこのスープを毎日飲みたい」
「味噌汁な。確かにいつも使用してるダシで作るよりずっと香りが高いな……大金渡して常時取り寄せて貰うか」
そして困ったことにレティシアの料理に舌が慣れ過ぎて、この国の料理の味付けがクドく感じると言う事態にまで陥ってしまった。心だけでなく胃袋まで掴まれて俺はこの先一体どうすればいいのだろうか。
レティシアは俺がいなくなったら生きていけない。だがそれは俺も同じだ。いや、寧ろ俺の方が……
「お前が俺と婚姻してずっと傍に居てくれたら、」
口から滑り出た紛れも無い本心にハッとする。
今俺は絶対に言ってはいけないことを言わなかったか?
「……」
「……」
シンと静まり返る朝食の場にチチチ…と場違いな鳥の声が響いて俺は頭を抱えそうになった。
レティシアの激昂に備えて箸を置き断罪を待つ。しかし返ってきたのは予想外の言葉だった。
「……お前三男だったか?」
「あ、嗚呼。兄二人はもう結婚して子供もいる」
「俺は長男だが家督は姉上が継いだ。俺の方も甥と姪がそれぞれ二人いる」
「レティシア?」
「別にしてもいいが。結婚」
「……」
「……ズ、」
再び静まり返った食卓でレティシアが味噌汁を啜る音だけが響いた。
次の瞬間俺は目の前の白米を掻き込み、味噌汁、綺麗に焼かれた鮭、昨日の夜からレティシアが仕込んでいた茄子の煮物等全ての品目を一気に平らげた。
「お前そんな野良犬じゃねぇんだから、」
「役所に届けを出してくる」
「は」
「家と職場への報告は後日で構わないだろう。今すぐに国の許可を得て正式に婚姻を確約したい」
「いや、お前」
「行ってくる。俺が戻るまで其処を動かないでくれ」
◇◇◇
かくして、ガルド家とエインズワース家の子息が婚姻を結んだ。
犬猿の仲とされていた二人の関係が突如明るみに出、剰え結婚までするという。このニュースは王城どころか街を上げての大騒ぎになり御披露目式まで開かれることになるが、それはまた別の話だ。
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