嵐の前の静けさ

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嵐の前の静けさ

ヴァルター・ガルドとレティシア・エインズワースの婚姻という衝撃的なニュースは一気に駆け巡り、数日経った今でも王都はその話題でもちきりだった。 最初は純粋な驚き、その次に関心が集まったのは当然二人の馴れ初めである。 ガルド家とエインズワース家の不仲は王都に暮らす貴族の間では有名な話だ。その子息が婚姻を結ぶだと?これ程面白い話はない。 加えてヴァルターは栄えある王宮騎士のトップであり、年に一度開催される剣術大会の覇者である。その肩書きだけでも十分魅力的だというのに、輝かんばかりの美貌まで持ち合わせた王都の女子の憧れの存在だ。平均から大きくはみ出した見上げる程の長身に均整の取れた逞しい体躯、太陽の光をも跳ね返す眩い金髪にエメラルドグリーンの瞳。ヴァルターの突然の結婚発表に枕を濡らしたご令嬢は両手足の指の数ではとても足りないだろう。 そのヴァルター•ガルドが結婚、それどころか相手は王族の姫でも名家の息女でもなんなら隣国の美姫でもなく、犬猿の仲とされた文官の中枢を担う男だという。 これは一体なんの取引があり何の力が働いた結婚なのか、ひょっとしてこの婚姻は形だけのものでヴァルターはいつか“ちゃんとした”相手を再び娶るつもりなのでは?いいや、二人の仲は純愛だ。犬猿と呼ばれながら人知れず愛を育んでいたのだ等々……王都では様々な憶測や推測が飛び交った。 その要因の一つとして婚姻相手であるレティシア・エインズワースの情報が薄いという理由が挙げられる。 名前だけは聞いたことがある、幼くして宮廷入りを望まれた大魔術師たる力を秘めた男、しかしその姿を目にしたことがある人間は少ない。 結局魔術師の道には進まず、猛スピードで高官の位に上り詰めた切れ者らしいがその出で立ちは異様。頭から足の先まで魔力封じのローブで包み隠し、必要最低限言葉も発しないという。 とは言え文官になるまで幽閉されていたわけではないのでレティシアにも当然学友が存在する。が、彼の人となりを尋ねられた同年の貴族や騎士は皆一様に怯えを孕んだ声音で言葉を濁すのだ。それがまた謎を呼び、衆人の興味を引く。果たしてレティシア•エインズワースはどういう人間で、どんなやり取り乃至は密約が交わされヴァルター•ガルドとの婚姻に至ったのか? 二人を題材にしたロマンス小説や絵画(レティシアは想像上の姿で描かれている)は王都の若いお嬢さん方に飛ぶ様に売れ、一種のブームになっていた。 そんな中、月に一度開かれる王立会議ではちょっとした事件が起きていた。 と言っても別段何か変わったことがあったわけではない。誰某が急病で倒れただの、小競り合いから乱闘騒ぎに発展しただの、はたまた突然国王が会議室に顔を出しただのそんな出来事は一切起きていない。いつもと違う点を挙げるとするならばレティシア・エインズワースが分厚いローブを身に纏っていなかった、ただそれだけだ。 その日レティシアは音もなく会議室に現れ誰に声を掛けるでもなく一直線に自らの席に向かい誰よりも早く着席した。驚いたのは周囲の人間である。いつも置物のように黒い物体が佇んでいただけの場所に知らない人間が座ったのだから。 会議に参加するメンバーは昔から在籍する年嵩の人間も多い。初めにレティシアに声を掛けたのは侍従長のダンだ。ダンは勿論レティシアの顔を知っていた。とは言え最後にレティシアの顔を見たのはもう二年も前の話だ。記憶の中の面差しと重なったが、雰囲気が変わっていて道ですれ違っただけでは気づかなかったかもしれない。 「やあ、どうしたんだね今日は。いつもきっちりと被っていた分厚いローブは身に付けなくて大丈夫なのかね?」 「ああ、実は長年に渡り体調を崩し、自衛の為に他人の魔力の影響を受けないローブを着ていたのですがこの通りすっかり良くなったもので」 しっとりと耳に馴染む不思議な声音だった。そこで周囲はそういえばレティシアの声も聞いたことがなかったと驚愕の事実に思い当たる。 「そうなのかね!私はてっきり君の魔力が増幅し過ぎて周りに影響を与えない為に着ているのかと思っておったのだが、成る程体調が優れなかったのか」 「ええ、おかげで仕事も満足に出来ず周囲に迷惑を掛けてしまいましたがこれから何とか取り戻せればと……」 概ねダンと同じ見解を持っていた周囲の人間はレティシア自身の口から解き明かされる事実に少なからず驚きの色を滲ませた。 ダンと和やかに雑談するレティシアは一見するととても穏やかな人物に見える。彼がまさか特大の猫を被っているとも知らず、物珍しさも相まって会議室に集まった大半の人間がレティシアに注目していた。 この国において黒い髪に黒い瞳という色彩を持った人間は珍しい。レティシアは造りは整っているが決して派手な容貌ではない。だが、涼しげな目許を縁取る睫毛はゾクリとする程艶めかしく、どういうわけだか視線を外すことが出来ない。まるで呑み込まれそうだ、初めてレティシアの相貌を目にしたまだ歳若い第二騎士団団長ティムはゴクリと生唾を嚥下した。レティシアの雰囲気に気圧されて弛んでいた会議室の空気がピンと張り詰める。 そんなタイミングで登場したのが騎士団のトップであり先日レティシアとの婚姻を発表したヴァルターだった。 会議室は何故か不思議な程の緊張感に包まれた。 果たして二人はどんな会話を交わすのか?というか二人は本当に婚姻を結んだ仲なのか? しかしそんな野次馬の期待をよそに、レティシアとヴァルターは互いに挨拶も交わさないどころか視線も合わさず全くの他人の様に振舞っている。 はて、本当にこの二人は婚姻を結んだのか?巷で話題のロマンスの果てに?とてもじゃないがそんな風には見えない。会話がなくともいい仲ならお互いを認めたらそれなりに空気が軟化する筈だ。しかし二人の間にはまるで見えない壁でもあるかのように冷たい空気が流れていた。やはり二人の結婚は家同士の交わした密約の元に生まれた政略結婚だったのだ。誰も何も言わないが、周囲がそう結論づけるのに時間は掛からなかった。 いつもとは違う張り詰めた空気。この日の王立会議はそんな風に始まり、やがて大きな嵐になった。
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