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一 桜下の逢瀬
「今年も見事に咲いたものよ」
大木を仰いで、男が呟いた。
枝を広げて空一面に、そして一斉に咲き誇っている桜は、そこかしこを薄紅に染めている。
甘く芳しい香りが鼻腔を擽り、男は待ち人が来たことに気づいた。
市女笠の垂れ衣で顔を隠しているが、男が待ちわびた愛おしい女であることは間違いない。
男はそっと女の背後に回り、後ろからいきなり抱きすくめた。
「……っ!」
驚き、声にならない息遣いが女から漏れる。
その息遣いさえ、男には愛おしく感じられた。
「もう、私のことなどお忘れになられたかと思いました」
梅花香が焚き染められている着物の香りを、深く吸い込みながら男が柔らかく女をなじる。
「私以外の男との噂を聞き、私の心が散り散りになっていたところです。あなたは私をお捨てになるのか」
女は小さく頭を振った。
「私とて、意に染まぬ結婚などしたくはないのです。ですが、仕方がないのです。父の意には逆らえませぬ。」
「吹けば消える蝋燭の炎の如き私を、憐れに思うてはくださらないのですか。私は昼夜あなたのことを焦がれているのに」
言いながら男は女の艷やかな髪を一房、そっと握る。
女は男の頬にほっそりとした手を添えた。
「そのように優しくしてくださるのに。あなたは私をお捨てになられる」
男はそう言って女の腕を握ると、力強く自分に引き寄せた。
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