1.氷のオメガ

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1.氷のオメガ

 ブレゲンダール帝国の平地に降り積もった雪はようやく解け、山岳地域に白い部分を残すのみとなった。大陸の中央に位置するこの国は、西部で金塊が採掘され南部では畑作が盛んに行われている。  豊かな自然に恵まれた国ブレゲンダールの帝都フラウ市――その西側に隣接するブラント伯爵領の屋敷では、毎週サロンが催されていた。  ブレゲンダールには敬虔な女神信仰者が多く、サロンを主催する伯爵夫人をはじめとして皆熱心に教義について語り合っていた。  その日、信徒により聖典の朗読が行われる中ブラント伯爵夫人の甲高い声が響いた。 「男爵子息が選ばれたですって?」  ざわざわと囁き声が広がる。 「あり得ないわ、こんなことって……オスカー!」  凍りついたように背筋を伸ばしたまま壁際の椅子に座っていた青年――オスカー・ブラントは名を呼ばれて立ち上がる。伯爵夫人の傍らへと歩み寄り、震える彼女の肩にそっと手を乗せた。さざめきに向かってオスカーは透き通った声で告げる。 「皆様、お越しいただいたのに申し訳ありませんが、本日は母の体調が優れませんのでお開きとさせていただきます」  すると客人たちはホッとしたように立ち上がり、伯爵夫人に労りの言葉をかけると早々に立ち去った。  室内には伯爵夫人である母とオスカーだけが残された。 「屋敷出入りの商人によると、男爵家で輿入れの準備が始まったそうよ。男爵夫人は嬉々として自分の息子が皇太子妃に選ばれたと語っていたのですって――」  母の顔が悔しげに歪む。 「そうでしたか」 「これまで我が家がどれだけ皇室に尽くしてきたと思っているの? 許せないわ。あんな身分の低い家柄の何の取り柄もないオメガが……!」  オスカーは母にかける言葉が見つからなかった。 「あなたの方が何もかも優れているのは明白なのに。あのオメガが現れなければ、あなたが皇太子に嫁ぐはずだったのに……!」  オスカーは貴族院議員であるブラント伯爵の長男で第二性はオメガ。生まれた時から皇太子の妃候補として育てられてきた。妃候補は一人ではなかったが、家柄や成長過程での皇太子との接点を考えれば、オスカーが序列の一番上だった。  しかし、皇太子はたまたま昨年の舞踏会で顔を合わせた男爵子息ベンヤミン・フューラーに興味を示した。そこから皇太子はベンヤミンに入れあげてしまい、家臣の忠告も聞かずに他の妃候補と会うことすらしなくなっていた。  それでも将来のことを考えれば、皇太子もいずれ冷静さを取り戻してオスカーを正妃に迎えるだろうと誰もが思っていた。オスカー自身も、ベンヤミンのことは妾として側に置くだろうとは予想していたもののまさか正妃として迎えるとは意外だった。 「悔しい……オスカー。お前は何とも思わないの?」  そう言われて自分の胸に問いかけてみたが、悔しいという感情は少しもわかなかった。むしろ安堵したと言っても良いかもしれない。  この世には男女の性別の他にアルファ、ベータ、オメガの三種類の性がある。これらは第二性と呼ばれ、アルファは生まれながらにして知力や体力に優れて人の上に立つ支配者としての性質を持つ。一方オメガは基本的な能力が多少劣るものの男女を問わず妊娠が可能でベータの人間よりも総じて美しい見た目をしている。そしてアルファとオメガはベータには感知できないフェロモンによりお互いを認識し、誘惑し、ときには威嚇することができる。  ブレゲンダール帝国においてオメガは優秀なアルファの子を産む確率が高いことから、とくに貴族のアルファは男女を問わずオメガとの結婚を望む者が多い。 貴族のオメガとアルファは将来的につがいになるため、幼い頃から厳しい躾を受けて育つ。ベータと違ってフェロモンによる求愛や威嚇などある程度の意思表示が可能であるため、逆にそれを抑えて感情を読まれぬようにするのが礼儀とされた。  特に皇太子は鉄の仮面を被っているのではないかと噂されるほど感情を露わにすることのないアルファだ。輝く金髪に整った顔立ちの美男子だが、たとえ二人きりになった時でも彼とは喜びも悲しみも分かち合えたためしがない。    彼のように何を考えているかわからないアルファと結婚して、生涯伴侶として添い遂げる自信がオスカーにはなかった。それはおそらく皇太子も同じ思いだったのだろう。  なぜならオスカーもまた、その無表情で冷ややかな態度から氷のオメガと呼ばれる人間だったから。
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