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依頼者比森と右岡奈音
比森がそのスナックに入ったのはまったくの偶然だった。
カウンター席だけの小さなスナックで、仕事の付き合いで連れられてこなければ近寄らない類の店である。飲み歩くという趣味はなく、けれども取引先との関係を良好に維持していくためには必要なのだった。ベンチャー会社といえば聞こえはいいが所詮は零細企業であり、大口のお客様があって初めて経営が成り立つ。揉み手をしながらお世辞を並べる、しがない社長業なのである。
あくまで営業活動のひとつとしてそのスナックに入ったそこで働いていたのが右岡奈音だった。オーナーであるママとの二人三脚で切り盛りしていた。
誰もが振り返るような美人というわけではなかったから、最初、比森も彼女に惹かれるほどではなかった。だが取引先の人は何度か来ていて、親しそうに話している。比森もそれにつられるようにして話しているうちに除々に打ち解けていった。あくまで「接待する」立場なので、余計に話しかけてその場を盛り上げようとしていたが、気がつくと奈音に惹かれている自分を意識した。同郷という共通点もあって、より親しみが湧いた。
地方の田舎町から都会に出てきていた比森は、四十二歳になるまで必死で働いてきた。生まれ育った地元には不景気でろくすっぽ働き口がなく、都会ならばと上京してみたもののそこも同様に不景気で、職を転々とした末にベンチャー会社を立ち上げた。十年前のことだった。
見通しが当たって順調な船出に見えたが、その実必死であった。なんとか会社を維持しなければと猛烈に働いた。気がついたときにはとっくに婚期を逃していた。それどころではなかった。
そんなときに出会ったのが右岡奈音だった。
その後何度もそのスナックに通った。接待ではなくプライベートで。すっかり顔なじみとなって、故郷の話に花が咲き、互いに個人的な話をするような常連客になっていた。しかしそれ以上の関係には進んではいなかった。
そんなとき、世界的な不況が起きた。そのあおりを受けて比森の会社も業績が悪化した。運転資金が足りなくなったが銀行もそう簡単にカネを貸してくれはしない。
そこで頼ったのが、元社員の幕石閃輝であった。
一年ほど前のことだった。突然、辞めたいと退職届を提出してきた。
「どういうことだよ?」
「いや、実は……」
幕石が言うには、副業が本業の収入を超えたのだ、と。副業のほうに専念したい、というのが幕石の言い分だった。
「副業って、なにをやってんだ?」
二十代の青年が比森の会社に入ってきたのは三年ほど前だった。偶然求人票を見つけて飛び込んできたのだ。学校を卒業して入社した会社が肌に合わず辞めたはいいが、新たに職を得ようと正社員をさがしたがなかなか採用されず、ここへたどり着いたのだった。
こんなちっぽけな会社に入社を希望してくる人間なんかそうそういなかったから、ありがたいとばかりに比森は幕石を雇った。待遇はそれほどでもない代わりに勤務条件はできるだけ優遇した。副業も認めた。
「音楽です。作詞作曲して、それがけっこうな収入になってきたんです」
「そうなのか……?」
比森は驚いた。音楽に関してはまったくの門外漢で想像さえつかない。
「しかしそんなに有名なら名前が売れているだろうに、聞いたことないぞ」
「匿名ですよ、もちろん。ネットで活動していますので、そこは自己防衛しています」
「ネットでの音楽活動というと、ユーチューバーとか、そんなやつか……?」
その業界についても、とんと無知であった。
「まぁ、近いですね」
「でもそんなのは一過性のもので、長続きするかどうかわからんだろう?」
お笑い芸人みたいなもので、人気があるのは一時だけで、それが続いていくのはほんの一握りだ。博打のようなリスクの高い世界である。
「安定したサラリーマン生活を棄ててまで飛び込むのは考えものじゃないか?」
「この会社が安定したものかどうか、わからないでしょ? 著作権料が入りますので、そうでもないですよ」
確かにベンチャー企業は吹けば飛ぶような存在だろう。安定などちゃんちゃらおかしい。そうはっきり言われてしまっては返す言葉もなかった。
代わりに尋ねた。
「うちの給料よりも多いって言ったが――どれぐらいの収入になるんだ?」
と、やや声をひそめて。
「まぁ、年収二千万ぐらいになりそうな見通しです」
「えっ……?」
絶句した。そんなに稼げるのなら、その二割ほどしかない本業など続ける気にならないのも理解できた。
「そうか……」
椅子からずり落ちそうになった。
こうして幕石は会社を去った。
その幕石に比森はすがった。
すると、
「いいですよ」
ダメで元々だったが、電話口でそう言ってくれた声が、まるで天使のそれのように涼やかに耳に響いた。
「比森さんにはお世話になりましたし、むしろ頼ってもらえてうれしいです」
とまで言った。
一千万円を貸してくれた。
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