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 聖王国の王太子の婚約者であったダナが、婚約を破棄されたあげく国から追放されたのはもうずいぶんと昔のことだ。かつてはダナに見せていたにこやかな微笑みを傍らのあどけないご令嬢に向けた王太子は、うんざりした顔でダナに向かって罵声を浴びせかけてきた。 『お前のように心を持たない冷血な女と結婚するなんてぞっとする。婚約は破棄させてもらおう』 『王太子殿下、私と殿下の婚約は国王陛下の御意向でした。殿下にとっては意に沿わない婚約だったということは理解しております。そうであればこそ、私は殿下のご迷惑にならぬように、聖女としての仕事に打ち込んできたつもりだったのですが』 『いくら奇跡の力を持っていたところで、血が通っていなければ魔女と同じではないか。国に災いをもたらす前に、さっさとこの国から出ていくがいい。まあ、そもそもお前の奇跡の力など、わたしは信用していないが。当然だ、見たこともないものを信じられるはずがない』 『見たことがない、ですか。そういえば殿下、私がひとの心を持たないとはどういう意味なのでしょう』  さっぱり理解できないと首を横に振ったダナに、王太子は耐えかねたように顔を赤くした。 『お前は、わたしの好きなものひとつ覚えられない。何度茶会に誘っても、お前はまるで初めて会ったかのようにわたしに接してくる。いくら政略結婚だとは言え、お互いに愛し合うように努力をするのは礼儀だろう。そんなこともできないお前では、そばに置く意味さえ感じられない』 『なるほど、そういうことでしたか。婚約を破棄した上で、私を国外へと追放する。それが王太子殿下のお望みでしょうか』 『くどい。何度も言わせるな。最初からそう言っているではないか』 『承知いたしました。奇跡の聖女として、王太子殿下の願いを叶えましょう』  美しい淑女の礼とともに、ダナは王太子の要求に応じた。そして、穏やかな微笑みを浮かべながら思い出話をひとつねだったのである。 『殿下、これで終わりだなんて寂しゅうございますわね。良いことを思いつきました。別れの挨拶代わりに、私との思い出話をひとつ披露してくださいませ。婚約者であれば、相手の好みを覚えることは当然ということでしたから、私の好きなものをひとつそのお話に絡めていただけるかしら』 『はっ、馬鹿にするな。興味がない相手だろうと、政治的に必要であれば覚えるのが王族の役割だ。お前の好きなもの……うん、好きなもの?』 『ああ、好きなものでは対象が広すぎて回答が難しいですね。それでは、好きな色にしましょうか? 好きな食べ物でも構いませんよ? 好きな季節は? 好きな動物は?』 『……わからない。なぜだ。お前に関して何も思い出せない』  驚いたのか呆然と立ち尽くす王太子に、ダナは噛んで含めるように言い聞かせる。 『殿下は、私の力を使いすぎました。国王陛下も王妃殿下も宰相さまも、それに私自身も何度も注意いたしましたのに。お互いの良い思い出が空っぽになれば、残るのは不満や嫌悪感だけ。それでも願いを叶えてもらった事実くらいは、多少記憶に残るはずなのですが、人間は都合の悪いことは脳内で消してしまう都合の良い生き物ですものね』 『待ってくれ、俺は……お前のことを……』 『聖女はこの国の王太子と婚約を結ぶことはありません。この国へは二度と立ち入りません。大丈夫です。殿下の願いは、すでに聞き届けられました』  ダナは、相手との幸せな思い出を代償に願いを叶える奇跡の聖女だ。願う奇跡が難しければ難しいほど、代償として天に捧げなければならない幸せな思い出の量は大量になる。聖女に「婚約破棄」「国外追放」を願ったせいで、ふたりの間に残っていたぼんやりとした淡い思い出もすっかり消え失せてしまった。空白になった心にじわりと染み込んでいくのは、「諦め」。隙間に「憎しみ」や「怒り」が入り込まないように、ダナは心に蓋をする。 (あなたはいいわね。忘れてしまうことができて。私はかつて何かがあったはずの空白を、ずっと覚えていなければならないというのに)  王太子と、騒ぎに気が付いたらしい国王たちの絶叫を後にして、ダナは王太子が願った通りあっという間に隣国に移動した。そこで出会ったのが、ダナの恋人になったサリバンだったのだ。
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