遅刻癖の先に

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 人には、癖があったりする。人によっては、直すことが難しいと感じている癖もある。俺には、遅刻癖があった。  今の会社は、そこまで厳しくはなく、多少の遅刻なら誤魔化せていた。それでも十五分、三十分の遅刻を毎日のように繰り返していることを、よく思わない同僚もいる。そこは、俺も気になっていて、遅刻癖を直さないといけない……とは思っていた。だが、朝起きられないのは、どうにもならなかった。  それを、タバコ休憩をしながら、俺は先輩社員に話していた。俺が、タバコの火を消して、仕事に戻ろうとしていると、事務員の女性が話し掛けてきた。 「三隅くん、朝起きられなくて、いつも遅刻してるの? だったら、良い物があるから、明日持って来てあげる。」 「え、何ですか?」 「内緒っ。明日のお楽しみよ。」  事務員の女性は、確か高無という名前で、俺よりも八歳くらい年上だったはずである。これまで、あまり話したことはない。  翌日、昼休みに事務員の女性が、俺のところにやって来た。昨日、言っていた物を、持って来てくれたらしい。 「これをあげるから、明日から遅刻しないように頑張ってね。」 「ありがとうございます。」  いったい、何を持って来てくれたのかと思ったら、目覚まし時計だった。俺は、いつもアラームを五個かけているが、それでも起きられない。これまでに、いくつかの目覚まし時計を試してみたこともあるが、無理だった。まあ、でも一応試してみるかと思い、その目覚まし時計のアラームをセットして、その夜は寝た。  朝、時間になるとアラームが鳴った。何か、特別なことがあるのかと思ったが――。 「おなかが空いた。おなかが空いた。おなかが空いた。」  目覚まし時計のアラーム音は、それだった。ただ、それだけの物だった。  初めの日は、すんなり起きられなかったが、何日か続けているうちに、お腹が空いて起きるようになった。そして、今までは適当だった朝ご飯も、割としっかりと食べるようになった。 「どう? 効果あったんじゃない。」  数日後に、俺が遅刻していないのを見て、事務員の女性がまた声を掛けてくる。俺は素直に、お礼を言った。 「いやぁ、ビックリしてます。本当に、あんなんで効果があるんですね。」 「あれ、知らなかった? 今、話題のアラーム音なのよ。」 「え、そうなんですか! 全然、知らなかったです。ありがとうございました。ただ、なんか最近すごくお腹が空くようになっちゃったんですよね。」  こういうのも副作用というのか、実際にそうした変化を感じていたので、俺はそれを言った。この目覚まし時計を使っている他の人たちは、どうなのだろうと思った。 「あら、そうなの? それなら、私が美味しいお弁当を作ってきてあげましょうか。」 「え、いいんですか?」  思い掛けないことではあったが、事務員の女性がそんな風に言ってきたので、俺はそれに乗っかることにした。翌日から、本当に事務員の女性は俺のために、お弁当を作ってきてくれた。男子学生のためのお弁当みたいな大きさである。事務員の女性は料理が得意なのか、美味しかった。  毎日、お弁当を作ってもらって申し訳ないなという気持ちも少しはあったが、勝手に作ってきてくれるし、美味しそうに食べてくれたら嬉しいと言っているから、まあいいか……と俺は思っていた。事務員の女性の方から、何か面倒な事を言ってくることもなかった。 「ああ、腹減ったなぁ。」  仕事が終わって、俺は帰ろうとしていた。今日は何を食べようかと、考えていた。その日は、たまたま帰るタイミングが一緒になったみたいで、そんな俺を見て事務員の女性が言う。 「今から、うちに来る? 美味しいご飯を作ってあげるけど。」 「マジっすか?」  毎日、手作りのお弁当を食べているからか、俺は事務員の女性が作る料理を食べたいと思うようになっていた。俺は、事務員の女性の家にお邪魔させてもらい、料理をご馳走になった。本当に、事務員の女性は料理が好きみたいで、どれも美味しかった。  それからも、俺はたびたび事務員の女性の家を訪れるようになった。そのうちに、体の関係も持つようになった。俺としては、食事のお礼に抱いてやっている、くらいの気持ちである。事務員の女性と付き合うとか、そんな気持ちは全くなかった。 「高無さん、おなか空いたぁ。」  そんな日々が続き、俺はいつしか事務員の女性を見ると、そう言うようになり、彼女が作る料理が食べたいということばかり、考えるようになっていった。そして、気付くと結婚することになっていた。  そうして結婚した今も、俺は彼女のことが好きなのか分からない状況で、どうして結婚までしてしまっているのか、自分で信じられずにいた。今日も、朝になると目覚まし時計が言うのだ、「おなかが空いた。おなかが空いた。おなかが空いた。……高無さんの手料理が食べたい。高無さんの手料理が食べたい。高無さんの手料理が食べたい。」  耳にハッキリと聞こえる音と、そうでない音――。  その目覚まし時計を、俺が頼りにしているのを彼女が見て、ほくそ笑んでいるとも知らずに、俺はこれからも彼女の手料理を食べるために、彼女との結婚生活を続けていくのだ。
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