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第16話 バイト始める
間もなく穂波のテーブルに晩ご飯、天ぷら定食がやって来た。そして、トレイには穂波が持参した『こごみ』の小鉢が二つ置かれていた。
「わ、出来ましたか?」
ママさんはにっこり笑った。
「自己紹介位しないとね。私はここの主人の佐倉 香雪(さくら こゆき)と言います。名前も和風でしょ? 漢字は微妙に違うんだけどね。あなたは?」
「えっと初めまして。寧楽女子大学大学院文学研究科の羽後穂波と申します。こちらに住むのは初めてです」
「そうなんだ。将来の博士さんなのね。こんな女優さんみたいな博士が誕生したら周囲が放っておかないわね。ま、冷めちゃうから食べてね。食べながら聞いてくれたらいいから」
「はい、有難うございます。いただきます」
穂波は真っ白な手を指先まできれいに合わせた。手のモデルだけでも充分やって行けるな。香雪は穂波が箸を進めるのを見て話し始めた。
「奈良時代のご飯なんて私も知らないから、スマホで、奈良時代・調味料とか調べてみたら、やっぱりお塩くらいしか出て来ないのよね。まだお味噌も無かったみたいで。その代わりにお醤油の元祖の『醤』って言うのが出て来てね、今で言うとナンプラーみたいなものなんだって」
「ナンプラー?」
「うん。東南アジアのどこかのスパイス。魚から取ったお醤油のようなもの。ウチでは使ってないから、代わりにアンチョビの缶詰のお出汁に臭み消しにショウガをちょっと入れて、茹でたこごみに絡めてみたのよ。もう一つは単純に塩茹でしたの。一応苦みは抜いたつもりだから、食べ較べてくれる? どっちが奈良時代に近いかなんて判りっこないけどね」
穂波は驚いた。こごみの話をしてからまだ10分程である。それで素早く的を射た2鉢が出て来る。凄い!
「あの、そう言うのってすぐに発想出来るものなんですか? やっぱり経験しないと出て来ないものですか?」
香雪は苦笑いした。
「そんな大袈裟なものじゃないよ。お料理は科学と芸術の掛け算みたいなところがあるから、料理人によって言うこと違うけど、私は知識半分、経験半分って単純に思ってるけどね」
「科学と芸術…」
穂波はナスの天ぷらを飲み込んで言った。
「あの! 私にここで修行させて頂けないでしょうか。独り暮らしは初めてでお料理も大して出来ないんですけど、やっぱ研究のためにもお料理が自在に出来ないと話にならない気がして」
「修行って弟子ってこと? 私そんなに巨匠じゃないけどな。しがない小料理屋の女将だから。そうね、じゃあバイトする? ちょうど夕方からのホール係が居なくて娘に手伝ってもらっているんで、娘から宿題できないってクレーム来てるのよ。来れる日だけでいいし、その合間にお料理も手伝ってもらうってので、どう?」
穂波は箸を置いて立ち上がり、香雪に深々と頭を下げた。
「はいっ!有難うございます。バイトも初めてなんで自信はないけど頑張ります」
「お姉さん、ここでバイトするの?! やったぁ!」
香雪の後ろからいきなり声がして、男の子が顔を出した。香雪が驚いてそちらを見る。
「びっくりした。理人、いつの間にいたのよ」
「だって、宿題終わったからゲームしてたのに姉ちゃんが変なこと言うから、訂正しに来た」
「ああ、そういうこと。えっと羽後さん、これは息子の佐倉 理人(さくら りひと)。4年生なのよ。あんた、羽後さんに惚れちゃった?」
母親の陰から顔を出した10歳の男の子は頬を赤くした。
「だって…、美人だし、姉ちゃんと違って優しそうだし」
「誰と違うって?」
更に背後から女の子の声がする。先程迎えてくれた子だ。香雪は更に振り向いた。
「何よ、次々に登場して。こっちは娘の佐倉 夏帆(さくら かほ)。6年生よ」
「二人とも初めまして。羽後穂波です。えと、23歳です」
夏帆は口を尖らせた。
「なーんか、ひ弱って感じ。お勉強ばっかりして来たんじゃないの?」
「夏帆! いきなり失礼でしょ。なんてこと言うの!」
「だってー、そう思ったんだもん。入って来る時もオドオドだったし、なまっちろいしー。ピシッとしないと務まらないよ」
「が、頑張ります」
指摘の通りだ。穂波は立ち上がったまま硬直した。
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