第1話 春の白

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第1話 春の白

 昨日、春の雪が降ったと言う。  真っ白だ…。  穂波は白いため息をついた。春の雪は水分をたっぷりと含んだ重い雪。春の陽の元ではあっという間に溶けてしまう。道路の雪はとうに無くなり、街路樹の根元に泥混じりの塊が転がっているだけだ。しかし、原生林の麓の広大な奈良公園・飛火野はそうはゆかない。春の陽射しにきらきらと輝きながら未だ芝生や木々を覆っている。 『待つ人の今も来たらばいかがせむ 踏ままく惜しき庭の雪かな (和泉式部)』  こうして見れば、確かに真っ白な光景を踏みにじられるのは嫌だな。和泉ちゃんとは随分情景が違うけど。  引越しの片付けが一段落し、周囲を少し見て回ろうと散歩に出た、羽後 穂波(うご ほなみ)はその真っ白な光景に目を奪われた。定義上、白は色ではないと言う。色彩がないからだ。自分も同じ。メラニンが作れないから白くなる。つまり、色素がないのだと。  病院でこれまで何十回となく受けて来た説明。だけど、白は色じゃなくてもこんなにきれいな、やはり色彩だと思う。  折角だから大学まで足を延ばしてみよう。歩いて何分かかるか測定するのに丁度いい。確か、今日は学部の入学式の筈。狭いキャンパス内は初々しい女の子たちで溢れかえっているだろう。正直、ちょっと気後れする。だけど明日からはそれが日常になるのだ。たくさんの好奇の視線に晒されるのは判っている。それが一日早くなるだけだ。  あ、鹿だ…。ホントに鹿が居るんだ。  飛火野に(たむろ)する鹿たちは、神の使いである鹿と、単なる野生の鹿に分かれると言う。地元の玄人さんはちゃんと見分けるそうだ。それどころか個体差まで見分けられる。相当な驚きだ。自分には精々大人と子ども、雄と雌くらいしか判らない。しかし考えてみれば人間だってみんな顔つきが違う。きっと鹿だってそうなのだろう。  穂波は前を見た。そうだ、鹿はこれから毎日見られる。帰りに買物をして帰らないと冷蔵庫はまだ空っぽだ。確か駅の近くにはスーパーがあると聞いた。荷物が多くなるから帰りはバスに乗ろう。えっと、このICパスは使えるのかな。いや、ここは観光地でもあるのだから関東地方からも大勢の人が訪れる筈。だからきっと大丈夫。  鹿ちゃんバイバイ。また明日ね。  雪解けで濡れた路面に気を遣いながら、穂波はまっすぐ前を見て、そして左手で日傘をしっかり握って歩き出した。目指す大学までは約20分の道のりだった。
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