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第19話 接触
「羽後さん、バイト始めたんだって?」
院生室でレポートを書いている穂波に、講義から戻って来た文美が聞いた。
「え? はい、先週から」
「ふうん、ウェイトレスだってね」
「まあ、そうとも言いますが、小料理屋さんで、お料理の補助をしながら教えて頂いているんです」
「料理に目覚めたってこと?」
「と言うより、万葉集から奈良時代の調理方法とか食材から生活様式を導けないかなって思って、それには基本知識が必要なので、今さらながら勉強しようかなって。そこのママさんが、昔のお料理も『こんな感じ?』ってちょこちょこってすぐに作って下さるので勉強になるんです。私も賄を作って少しずつ腕を磨こうかなと思っています」
「ほう。一度私も行ってもいい?」
「はい、勿論です」
+++
と言うことで、ある日の夕刻、文美が『ごはん屋もみじ』を訪れた。
「似合ってるわね。地がいいのは否定できないからな」
穂波のエプロン姿を文美がヨイショする。文美が鰤の照り焼き定食をオーダーして店内を見回していると、がらっと引戸が開いた。
「いらっしゃいませ。あ」
「また来ましたよ。ここ、美味しいですから」
以前にやって来た可夢偉だった。可夢偉は文美の隣の席に座る。穂波があたふたとお冷とメニューを持参する。
「えっと穂波さん、今日は肉じゃがでお願いします。このところ、大丈夫ですか? 皮膚炎のサンプル薬ならいつでもお持ちしますから」
「あ、有難うございます。今のところは大丈夫です」
「そうですか…」
可夢偉は少々残念そうだ。穂波がキッチンに戻ってから文美は思い切って聞いてみた。
「失礼ですけど、羽後さんのこと、ご存知なんですか?」
「え? ええまあ、以前に事情を伺ったことありまして、私、MRをやってるのでお力になれないかなあと思って。今のところ拒否られているんですけどね、屋外に出られないって可哀想ですから。穂波さんならモデルだって出来ますよ」
可夢偉は爽やかに笑って名刺を差し出した。MRなんだ…。文美は驚いた。知らない所でこんなイケメンが穂波に近づこうとしている。ふうん。文美は鰤を口に運びながら考えた。
こんなイケメンとくっつけば、体質も改善するかもしれないし、修士号なんて目指さなくてもよくなるんじゃないの? そう、これは決して彼女の夢を取り上げるとか、道を妨げることではない。彼女を幸せに導いてあげることだ。後期の最初のフィールドワークはいつだっけな。文美はスマホのカレンダーをチェックした。
そして食後、箸袋にこっそり書いたメモを可夢偉に渡した。
+++
夏休みの終盤、研究室に顔を出した文美は、人見教授に進言した。
「先生、羽後さんのフィールドワークですけど、9月の分、参加させてあげたら如何でしょう?」
「え? 反対してんじゃなかったっけ? 足手纏いになるからとか言って」
「ずっとそう思っていましたが、彼女の研究熱心はお見それしました。実際に文献から料理まで作ってみて、万葉集の中の表現と較べたりしていますから、やはり自然の風景も見せてあげたいし、体感して欲しいと思ったのです」
「うん、尤もだな。今度のフィールドワークは町にも近いし、初めてには丁度いいかも知れんな」
「でしょ? じゃ、出るように言いますね」
「うん、頼むわ」
人見教授は深く考えずに許可を出した。
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