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第20話 新薬
『萩の花咲きたる野辺にひぐらしの鳴くなるなへに秋の風吹く(詠み人知らず)』
まさにその通りだ。ちょっと暑くて秋の風って感じじゃないけど。
穂波は初めてのフィールドワークに少々感動していた。現実はどうと言う事ない風景である。市街地から車で10分も走れば萩の花が見られるここいらでは、9月になっても蝉が鳴いているが、残念ながらヒグラシではなく尽尽法師である。しかしそれでも念願の『万葉集の生まれた舞台』を見られた。確かに全国どこにでもこう言った風景はあるだろう。しかし、それが万葉集の良いところだと穂波は思っていた。どこにでもある風景、どこにでもある生活、そして誰もが胸に抱く毎日の感情。そう言った諸々が普通に描かれている。だから愛おしく抱きしめたくなる。昔も今も一緒じゃん。そう思わせる感傷を。
「羽後さん、大丈夫かい?」
人見教授が汗を拭き拭き聞いて来た。今日は半袖ポロシャツにワーキングパンツ姿である。
「はい、一人だけ日傘さして申し訳ありません」
「気にしないよ。昔のヨーロッパじゃ、モネの絵にあるように、日傘は淑女のシンボルだったからね。もし体調に異変があったら車に戻っていていいよ」
「有難うございます」
穂波は道路脇に停めたミニバンにちらっと目をやった。研究室でレンタルしたものだ。するとその後方から1台のシルバーのバンがやって来て停車した。1台でも停めてあると、停めやすいものね。穂波はまた平野部を見渡す。その場所は小高い丘になっていて見晴らしがよいのだ。教授が南方向を指さした。
「ずっと向こうに、見えるかな、低い山がちょこちょこっと、いきなり出ているだろう。あれが神話の山々だよ」
「へぇ。三角関係になったって山ですね」
「そう、一番右の畝傍山が女子、左の端の耳成山と真ん中の香具山が男子だったらしい。諸説あるんだけどな」
「そうなんですか…。私はてっきり香具山が女子かと思っていました。畝傍山ってシャキってしていて、男子って感じですけど」
「だよな。シャキッとして凛々しい姫さまだったのかもな。その方がモテるのかな。やっぱ自分を巡って男性が争うって気持ちいいものなのかな」
「女の子は一人の人とずっと寄り添う方がいいと思うものですよ。取り合いとかになったら選べないです。男性は違うのでしょうか」
「そうだな、一時的には嬉しいかも知れんが、結局は淋しくなるんじゃないか。男でも女でも、想う人が二人って幻想のような気がする。必ず順番がつくだろうから」
「光源氏は特別でしょうか。私にはちょっと理解を超えていて」
「私の理解も実は超えているよ。小説のキャラだから」
兼三郎は笑った。その笑顔は穂波をホッとさせた。
良かった、先生は普通の人で・・・。
『思ひあまり、いたもすべなみ、玉たすき、畝傍の山に、我れ、標結ひつ (詠み人知らず)』
万葉集の一首。想いが募り、畝傍山に私のものだという印を結び付けた、と言う意味である。結んでくれる人がただ一人で、添い遂げられたら良かったのにね。穂波は遠くの山に語りかけた。
「羽後さん! お客様よ」
そこへ突然、文美の声が掛かった。穂波は振り返る。 ここにお客様?
「穂波さん、覚えて頂いていますか? ローレライ薬品の上月可夢偉です。いいお薬を持って来ました。日焼け止めなんて目じゃないヤツです。試供品ですから自由にお使い頂けるんですよ」
イケメンは爽やかに口上を述べた。
「え? いや、あの…」
穂波は思いっきり戸惑った。フィールドワークの最中、つまり授業中のようなものだ。そこにずけずけと…、と言うか、なんでここが判ったの? 確かに以前、お薬をとか仰ってたけど、お断りしたつもりなんだけど。
「羽後さん、試してみたら?」
え? 織部さん、なんで乗っちゃうの? 研究には人一倍厳しい人なのに。
「気になってたんだ。マスクは花粉とかで手放せない人もいるから仕方ないけど、サングラスじゃ色が正確に見えないじゃない。歌の中にも伝統色が出て来るから、直接目で見た方が良いと思うよ」
まあそれは一理あるけど…、だけどちょっと怖い。文美はチャラいイケメンを推す。
「MRさんの太鼓判だから心配ないと思うけど、万一合わなくても、お薬屋さんなんだから治療薬もあるでしょ? ね?」
「イエッサー! もっちろんです!」
「は、はい…」
止む無く穂波は頷いた。人見教授は何も言わない。展開が理解出来ていないのかも知れない。
「じゃ、ウチの営業車の中で塗ってみて下さい。ご案内します」
言われるがままに可夢偉について行った穂波は、目の周囲を中心に可夢偉が持参した試供品を塗り、そしてサングラスを外した。
それから2時間ほどでフィールドワークは終了した。なんだか目の周囲がごわごわと熱い気がする。穂波は可夢偉が帰ったのをいいことにサングラスを掛けた。
その夜、シャワーを浴びた穂波は顔に激痛を感じた。鏡を見ると、目の周囲が赤く爛れていた。
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