第22話 訴訟沙汰

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第22話 訴訟沙汰

「誠に申し訳ありませんでした」  翌日の人見研究室、朝一番で可夢偉が現れ、深々と頭を下げた。 「ま、直って下さい。掛けて話をしましょう」  人見教授はソファを勧める。教授の横には文美が座り、当事者である穂波は特大マスクのまま、パイプ椅子を拡げ、文美の横らへんに座った。 「基本的には大学や大学院に対する話ではないので、私が相手になるのはおかしな話です。しかし、研究室のフィールドワーク中に起こったと言うことで、指導教官である私も話に加わる責任があると思っています」 「ご尤もです」  ソファに浅く座った可夢偉はスーツの前ボタンも掛けたままで背筋を伸ばしている。 「今回、羽後さんに渡された薬は、試供品と伺いましたが市販薬ではないのですか?」 「厳密にはまだ販売しておりません。臨床試験中のものです」 「認可は降りていないと?」 「いえ、頂いております。ただ、羽後さんに合うかどうかは別問題でして」 「ふむ。要は、体質に合っていない可能性があると?」 「仰る通りです」 「羽後さんの体質をよく確認せずに、投薬したと言うことですかな」  可夢偉はまた頭を下げた。 「私には投薬をする権限はありません。そもそも医薬部外品なので投薬と言う言葉は当たらないのですが、テスターという位置づけで参加頂いたと言う形にしております。その際、体質を十分考えずにというのは、その通りです」  教授の隣で、文美も気まずい思いに囚われていた。可夢偉を仕向けたのは文美であり、まさか単なる日焼け止めがこんな騒ぎになると思っていなかった。勿論、可夢偉が何を用意するつもりかは知らなかった。単に機会を与えただけだ。予期なんか出来なかった。そんな中で可夢偉の態度は非常に誠実である。穂波の症状を見ればそうならざるを得ないのかも知れないが、幾らでも言い逃れは出来た筈だ。彼は逃げずに正面から向かい合っている。  案外、いいヤツだな。  気まずさの中で文美は可夢偉をそう評価した。しかし、彼だけに責を押し付ける訳にもゆくまい。 「先生、私もフィールドワークの機会をお話ししたので、責任はあると思います。私が言わなかったらこんな事態には至らなかった筈です。申し訳ありませんでした」  人見教授は文美の肩に手を置いた。 「法的な解釈は判らんが、フィールドワークは機密事項でもないし、学外の人も参加する。極端に言えば、羽後さんのフィールドワーク作業をサポートするために、上月さんは来てくれたと言えなくもない」  穂波はいたたまれなくなった。 「あの、もう大丈夫ですからもうお仕舞にして下さい。自分の体質は自分が一番解っているのに、よく考えずに塗ってしまった私の責任です。上月さんも織部さんも悪くないです。先生の仰るように、お二人とも私のフィールドワークをサポートして下さっただけです」  教授は今度は穂波を見上げた。 「いや、そうはいかんのだよ。上月さんはそもそも製薬会社の人だ。素人じゃない。それがテスターとは言え、体質を全く考慮せずテストさせたというのは業務上の過失に当たる。少なくとも羽後さんはそれで被害を被っている訳だから、自己責任とかで幕を引く訳にはゆかないのだよ。な、上月さん、これは訴訟に値する事項だと思うが、如何かな?」  可夢偉は頭を下げたまま、 「仰る通りだと思います。ただ、今回は私個人が先走っただけですから、会社相手はご勘弁頂きたい。あくまでも私個人相手での提訴であるなら、私はやむを得ないと思っています」 「先走った理由に、羽後さんが美人だって言うのもあるのではないですか? 単純に」 「否定はしません。ただ、それだけでは決してありません。詳しく伺ったり調べたりはしていませんが、私が見る限り、難病とも言えますから、薬に関わる職業人としてお助けしたいと言う思いはございました」  ふう。 文美は小さく溜息をついた。先生の仰りようは正論である。しかし厳し過ぎる気もする。だって、誰も悪くないのだから。敢えて言えば、羽後さんの体質、それに尽きる。だから上月さんの対応は充分真摯であると思う。イケメンでこれだけ真面目。結婚、してないよね? 指輪はないけど…。  人見教授も可夢偉の対応を見ながら考えていた。訴訟となると原告は研究室なのか? いや、それだとフィールドワークの管理体制やらが問われかねない。製薬会社はやり手の顧問弁護士を抱えている筈。すると製薬会社社員を安易にフィールドワークに加えた責任が弁論に挙がって来る。まずは文美であり、管理責任は私。研究室ぐるみの体になる。こんな話、大学当局だって歓迎しないだろうし、今後の研究活動を縛る可能性もある。教授はまた穂波を見上げた。 「羽後さん、こういう感じだから、提訴する場合は羽後さん個人からになると思うが、どうする? 弁護士費用がかかって来るけど、保険で出るとは思いにくいな」 「そんな、テイソって裁判ですよね? しません! 私の責任ですからそんなこと絶対にしません」  可夢偉は頭を少し上げた。まだ穂波を直視は出来ないようだ。代わりに人見教授が告げた。 「上月さん、そう言うことだ。だが、安心しないで欲しい。羽後さんの症状はそれで治る訳でないし、現実問題として、彼女は今、余計な苦痛を味わっている訳だし、本来しなくていい苦労もしている。やはりケアは全力でやって頂く責任はあるのではないですか? 個人的にしても」  可夢偉はソファを降り、床に正座した。 「肝に銘じます。全力で当たらせて頂きます」  平伏した後、可夢偉は出口でまた深々と一礼し、研究室を出て行った。  その背中を見送り、文美は思った。これがきっかけであのMRと羽後さんがくっつけば思い通りなんだけど、それって何だか惜しい気もする。彼に個人的に謝っておこう。そもそものきっかけは私だったのだから。文美は作戦を小さく変更した。
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