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第27話 待ち人
穂波はマンションの前までふらふらと戻って来た。幸い途中で誰にも会わなかった。こんな体裁とは言え、やはり叫んで逃げられるのは嬉しいことではない。とにかくまずはお風呂に入って泥も傷も流して…
あれ? 誰かいる。マンションの前には人影があった。しかし通らない訳にはゆかない。顔を伏せて急いで通ろう。穂波が足を速めた時、
「羽後さん?」
先生? この声は先生だ。
「は、はい…」
近づいて来た影は声を上げた。
「え? どうしたの? びしょびしょで傷だらけ。転んだ?」
「え。まぁはい。ちょっと池に落っこちて」
「池に落っこちた? 大変じゃないか。怪我は? あ、その前にここだよね。穂波さんの家」
「はい」
「こんな所で話している場合じゃない、さっさと部屋に戻らないと」
兼三郎は穂波の肩を抱くようにエスコートを始めた。
「すみません、不注意で足を滑らせて」
「そうか、それは気の毒に。あの、ちょっと今日のことが気になったから、立ち話でもと思って学生課に住所聞いて見に来たんだ」
「あ、有難うございます。えと、ここです」
穂波は鍵を取り出し、もたつきながら開けた。と言うことは、先生、
「ずっと待って頂いていたんですか?」
「一度インターフォン押したけど、まだみたいだったからね。不審者と思われて通報されないかってドキドキだったよ」
灯りをつけた狭い玄関で、兼三郎の歯が白く光って見える。穂波は今日一日の出来事が一瞬でフラッシュバックし、身体とともに大きな音を立てて崩れてゆくのを感じた。
+++
何だか目の前が明るい…。
穂波は薄く目を開けた。なんだ、ソファの上。こんなところで…
え? バスタオルが敷かれている。
あっ! 穂波はがばっと上体を起こした。そうだ、私、先生と一緒に…
「気が付いたかい?」
兼三郎が振り返った。ケトルでお湯を沸かしている。
「す、すみません! 私 …」
兼三郎が傍らにやって来て膝をつき、手で穂波を制した。
「そのままそのまま。大変な一日だったから無理ないよ。顔も足も藻だらけで擦過傷にもなっていたから、取り敢えずタオルを探して拭いてみた。流石に服を脱がせるわけにはいかないから、出来る範囲でドライヤー借りて乾かしてみたんだけど、まだ湿ってる。まずはシャワーを浴びてお出で。あ、その前に、一杯だけ温かいミルクを飲んで。勝手に家探しして申し訳なかったけど」
兼三郎からマグを受け取った穂波は、照れながらミルクを口に含んだ。
「織部さんならもうちょっと手際よく手伝えるんだろうが、高齢者目前のオッサンじゃ気が利かなくてすまん。シャワー浴びている間にコンビニで絆創膏とか買って来るから鍵を借りるね」
「はい…すみません」
+++
穂波はシャワーを浴びながら顔を顰めた。擦過傷があちこちにあって沁みる。青臭い藻を流し落とし、傷以外は取り敢えず元に戻った。髪を軽く乾かし、ちょっと迷いながらパジャマを着込む。上から何か羽織れば失礼にはならないだろう。洗濯機を回し始めた時に、玄関の鍵がカチャリと鳴って兼三郎が帰って来た。
「パジャマですみません…」
「いや、こっちこそ、本来は指導学生の、それも女子学生の住まいに入るなんてセクハラ行為なんだが、人命優先ってことで勘弁して下さい。コンビニだからそれ程いろいろある訳じゃないけど、大き目の絆創膏と消毒用スプレイは買えたよ。それから朝食用のパンと飲み物も」
「すみません、有難うございます」
「じゃ、私はこれで。流石に私が羽後さんの足を触るわけにはいかないからね。明日は休んでね。立ち直ってから出て来ればいいから、無理はしないように。MR君の話はまたその後にしよう。玄関の施錠を忘れないようにね」
兼三郎は立ち上がって微笑んだ。包み込むような温かい眼差しだった。穂波の感情に稲妻が走った。
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