第28話 白絹

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第28話 白絹

「先生! 待って下さい!」  穂波は一歩踏み出して、兼三郎に向かって手を伸ばした。 「ん?」 「先生! 帰らないで下さい。私、今夜は一人でいる自信なくて…」 「え、いや、そう言われても」 「判っています。先生が織部さんと一緒に住まれていて、他人じゃないだろうってことも。でも今日はここに居て欲しいんです。いろいろ聞いて下さい…織部さんには…怒られても嫌われてもいいです。私、やっぱり気味悪いですか? 幽霊だって、さっきも逃げてゆく人がいて…」  穂波の目から涙が溢れ、流れ落ちた。 +++ 「遅いなあ。誰と飲みに行ったんだろ」  文美はリビングで本を読みながら時計を見上げた。 「お父さん、お風呂冷めちゃうよ」  その時、文美のスマホがバイブした。 「えー? 午前様予定? 大阪まで行ってるの? ったく、お酒弱いくせにしょうがない人だなあ」  文美はスマホを置いて伸びをした。先に寝よ。 「付き合い切れないや。お母さーん、私、面倒見切れないよー」  文美はリビングの照明をそのままにして自室に向かった。 +++ 「これ、完全にセクハラとアカハラになるんだけどな」  兼三郎はボソッと呟いた。ソファの上で、その腕は穂波の肩に回され、穂波がパジャマのまま兼三郎にもたれかかっている。穂波の涙は一旦治まった。多分、30分は泣き続けていただろう。穂波らしく、愚痴りながら静かに涙を流し続けた。時折しゃくり上げ、仕方なく兼三郎は肩を抱いてソファに座らせたのだ。 「セクハラとか言う人がいたら私がはっきり否定します。私がお願いしたって」 「それは有難いけど、それもまた強要させたんだろうって言う人がいるんだよ、世の中には」 『人言(ひとごと)(しげ)言痛(こちた)み逢はずありき 心あるごとな思ひ我が背子(せこ) (高田女王)』 (ごちゃごちゃ言われるのが嫌で会わなかっただけ。嫌いになった訳じゃない、ダーリン)  穂波は何気に呟いた。意味を知っている兼三郎はドキッとする。穂波は小さく微笑む。 「すみません、昔も今も周りの人の言うことに(まど)うものなんですね。私、先生のことが好きで離れたくないとか言ってるんじゃなくて、先生が言って下さった研究のテーマが、私の中で初めての光みたいだったんで、それに縋っていたいって思って…」  穂波はまた涙声になった。兼三郎は穂波の肩を抱いたまま優しく撫でる。 「苦しかったんだね、この二十年。MRの彼のように、そこに乗じて来る男もいたんだろうけど」 「上月さんに悪気はなかったとは思います。けど、なんか表面上のことばかりだったので、哀しくなってしまいました。ただ、そんな人も入れて、私、みんなを不幸に引き摺り込んでいるみたいで、中室さんが仰ったように、先生はお祓いされた方がいいのかも知れません」  兼三郎の手に力が入った。穂波をぐっと抱き寄せる。あんな話、何故知っているんだ。誰からどんな気持ちで聞いたんだ…。 「お祓いなんかするもんか。立場上、私情をぶちまける訳にはゆかないけど、私には羽後さんが真っ白な絹のように見える。汚れや穢れを自ら弾く、凛として高貴な絹に見えるんだよ。あなたはそのままが美しい。一人の男としてもそう思うよ」  真っ白な絹・・・、一人の男としても・・・。  穂波の鼓動が速くなった。指導教官でありお父さんくらいの歳の人で、でも男の人には違いない。これはどういう感情なのだろうか。私を立ててくれているのか。励まそうとしてくれているのか。それとも…、いや、駄目よ。こんな状況になってから言うことでもないけど、先生は織部さんと他人ではない。多分今頃、織部さんは先生を待っているんだ…。  穂波はうつうつと考えた。先生と織部さん。私は焼きもちを焼いているのだろうか。だって先生の手はこんなにも温かい。白絹・・・、私のことを初めて認めてくれた人。このまま先生の中に溶け込んで行けたらいいのに…。ほっとした感情と一日の疲れが、気を緩めた穂波を一瞬で眠りに引き込んだ。  兼三郎は自分にもたれて寝息をたてる穂波を眺めた。娘よりも歳下の女性。今日はさぞや疲れただろう。この眠りで少しでも身体の疲れと心の痛みが取れたら、そして明日から更に白く輝いてくれたら、私がこの手でそんな風に育ててあげられたらどんなにいいだろう。年甲斐もなくこんなことを考えるのは異常なことなのだろうか。勿論、過剰な干渉はアカハラと解されることもある。だけど、本音を言おう。 「私は自分の手で守り抜きたいのだ。この白絹を、このささやかな安らぎを」  兼三郎は小声で呟いた。  穂波は淡い夢を見ていた。七色が仄かに周囲を染めて、しかしその中に白はない。何故なら白は色ではないと言うから。だけど先生は認めてくれた。白は立派な色だよ。そんな風に先生の唇が動くのが見える。だけど、私は風に煽られて地上から遠ざかって行く。幽霊だから仕方ないってみんなが思っている。でも先生は言ってくれる。この白絹を私が・・・。声が小さくなる。先生、その続きは何ですか? 先生、もう一度聞かせて下さい、大きな声で。だって、このまま遠ざかると、私はまた独りぼっちで、やっぱり幽霊だったって言われて・・・、先生、その手を繋いで私を抱き寄せて下さい! 人見先生!  穂波の身体が突然ビクッと震えた。兼三郎はその肩をまた優しく撫でる。穂波は目を開けた。そうだ、ここは・・・、焦って身を起こす。私、先生に勝手なことばかりを・・・。 「先生、すみませんでした。私の我儘でお引き留めして。もう大丈夫です。傷は自分で手当てできますし、顔だって、こんなになった経験もありますから大丈夫です。本当に有難うございました」  兼三郎も背を起こした。 「うん。じゃ、怪我をしたって私に連絡があったことにしておくから、さっきも言ったように、出て来れるようになってから登校したらいいから」 「はい。有難うございます。明日はちょっとムリかもですけど、明後日には必ず行きます。ゼミもありますし。あの、タクシーとか呼びますか?」 「いや、大丈夫だ。ぶらっと歩いて駅の近くで拾うよ。妙なアリバイになっても困るし」 +++  兼三郎はマンションの階段を降りる。結局、何ごとも起こらなかった。起こらなくて良かったのだが、起こっていたらどうなっていたのだろう。私の腕の中に儚い白絹を(いだ)いていたら・・・。兼三郎の心を覆ったのも、淡く色づいた白絹であった。 +++  穂波はたった今まで兼三郎が座っていたソファを眺めた。そんな気持ち、ある筈ない。先生も私も。だけど…、  穂波はソファに残った(ぬく)もりに顔を埋めた。
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