研修室にて

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研修室にて

「三日間でよくこれだけ綺麗になったものだ」  ソファーセットは四席とも座れるうえ、テーブルには何も乗っておらず埃も綺麗に拭かれている。研究室を与えられてから二年間、ずっと部屋の隅に積まれていた段ボールもすべて解体された。本は本棚に収まり、出版社ごとに五十音順で並べられている。発掘できず図書館で借りていた国史大系もようやく研究室のものを見られるようになった。 「本当に得意なんだなぁ」  すっきりした自室に興奮を隠せない。  どこからか発掘されたコーヒーメーカーがいい匂いをさせている。コーヒー豆も大江が準備してくれたものだ。 「ちまちまやってたら、あんたが散らかすペースに追いつかないからな。その日使った本はここに入れておけ」  指定されたのはスーパーの買い物かごだ。デスク脇に置かれ、このかごに入れた本は、次に大江が来たときに片づけてくれるらしい。  自宅でも脱いだ服をかごに入れるくらいはできる。胸を張って任せてくれと言えた。 「大江くんは兄弟がいるのか?」 「兄弟? いないが」 「そうか。よく気がまわるから、てっきり年の離れた兄弟でもいるのかと思ったんだが」 「それなら……、昔、度を超すものぐさと暮らしていただけだ」 「なるほど。俺はその恩恵を受けているわけだな」  茶菓子を皿に移しながら、夏休み明けの研究室でゼミをおこなう妄想に口角があがる。 「もしかしたらゼミの希望者も増えるかもしれないな」 「あんた、そんなに人気がないのか?」 「うっ、直球だな……。自分では非常に否定しづらいが、原因は以前話した噂だと信じたいところだ」  蓮介の世話をさせられる噂と、部屋に出るという噂だ。後者は汚部屋による雪崩に驚いた学生が言い出したものだと踏んでいる。部屋が綺麗になれば、噂もそのうち立ち消えるだろう。 「さあさ、食べよう」  大江が入れたコーヒーの隣に和菓子を広げる。  今日の茶請けには『金魚』を選んだ。透明な琥珀羹の中に練り切りで作ったさざれ石が敷き詰められ、その上を赤と黒の金魚が泳いでいる。表面に散らした金箔が輝く水中を演出し、見る者に夏祭りや縁日を思い出させる。  まだたった数日だが、大江と茶菓子を囲む時間は心が躍る。  大江は鬼の専門家である蓮介が知らないエピソードを多く知っていた。  酒呑童子の首塚で鬼贔屓の陰陽師が酒盛りをしたなんて話は今まで聞いたこともない。陰陽師は映画や創作で取り上げられるイメージが強いが、史実上はれっきとした役人だ。 「首塚大明神がいつから存在しているか、地元の人でさえわかっていないんだ。君の話は史実か創作かどっちだ?」 「事実だ」 「なら、その陰陽師の名前は?」 「安倍晴親あべのはるちか」 「晴親……? 『安倍』というからには俺のご先祖だろうが、家系図で見たことがない」  本家を出される前まで、赤ん坊の頃から陰陽師になるよう英才教育を受けていた。そこでは、ひらがなの読み書きを覚えるより先に、安倍家の由緒を刷り込まれる。 「晴明の三男だ」 「晴明の? 晴明の子は吉平と吉昌の二人だけのはずだ。出典はなんだ? もしそんな記録が残っているなら大事だ」  学者がこぞって食いつくような話を、なぜ大江が知っているのか。作り話だと疑いたくなるが、嘘をついている様子もなければ、大江に嘘をつく理由もない。 「倉橋先生、失礼します」  ノックのあと、ゼミ生の女性の声が続いた。 「ああ、入って」  いつでも相談に来て構わないと、今年卒業論文を書く四年生や院生には研究室にいる日程を共有していた。大学は夏休み中だが、八月下旬にはゼミ合宿があり、論文の中間発表を予定している。アドバイスを求めに来る学生は多い。 「先生、今日も暑いですね~ってワッッ!」  ドアを開けるなり女子生徒は飛び上がって驚いた。あまりに大きな声でこちらまで驚く。 「どうかしたか?」 「いや、あ、いや、なんでもないです」 「卒論のことじゃないのか?」 「そうなんですけど、お客さんがいるとは知らず、また後で来ます!」 「後でって、いや、今で構わない」  蓮介は迎え入れようとしたが、女子生徒は大江の方をちらちら伺いながら中に入ってこようとしない。 「彼とはお茶を飲んでいるだけだ。気を遣わなくていい」 「俺は実在しているから安心しろ」  大江の言葉に思わず吹き出しそうになる。  真顔でコーヒーを啜りながら、この男はそんなことも言うのか。 「だそうだ。よければ君も座るといい」  蓮介の話を聞いている間、ゼミ生は緊張した面持ちでソファーに座っていた。配置的に蓮介の隣、大江の斜め前に座ってもらったが、少しも大江の方を向こうとしない。  質問を済ませ、そそくさと荷物を片づけるゼミ生に軽い冗談のつもりで言った。 「もしかして、彼が鬼だとバレたかな?」 「え……?」 「この研究室には出るという噂があるから、君は入るのを躊躇ったんだろう?」 「は、いや……あれ、本当なんですか?」  ゼミ生がおそるおそる大江の方を見る。 「美しい鬼さんですね……」 「人の血肉は食わないから安心しろ」  そう言う大江はどこか艶めかしく、蓮介自身も話を止めるまでドキドキしてしまった。本当に、大江とは気の置けない友人になれそうだ。 「冗談だ。何も出ないから安心して来てくれ」  大江と二人になって蓮介は話を戻した。 「もし君の言っていることがすべて本当だとしたら、『鬼を呼び寄せる箱』を知らなかったのも、俺の勉強不足かもしれないな。大江くんなら知っていそうだ」 「鬼を呼び寄せる、と言ったか?」 「そういう話らしい。何か思い当たるか?」  大江はしばらく逡巡して首を振った。箱を見たいと言われたが、ホテルの金庫に保管していて今は手元にない。 「興味があるなら見に来るか?」  来週末に依頼人へ返す予定を伝えると、大江は今晩さっそく部屋を訪ねてくることになった。若者には珍しく携帯電話を持っていないと言うので、滞在しているホテルを教えた。 「ホテル暮らしだと誤解しないでくれ。先日の台風で家の窓ガラスが粉々に割れてね。修理が終わるまで滞在しているだけだ」 「そうか。それは大変だったな」 「ああ、けど良いこともある。毎日部屋を清掃してもらえるし、君が驚くほど清潔を保ってるよ。せっかく部屋に来るなら食事も用意しておこう」  大江が帰ったあと、帰り支度をしていると先ほどのゼミ生が戻ってきてドアを叩いた。  入るよう伝えると、綺麗に片づいた部屋の中をずんずん歩いて蓮介のすぐ近くまで来る。  あまりの勢いに思わずたじろいだ。 「先生、さっきの人、なんの知り合いですか? この前、ゼミ見学に来た人ですよね? イケメンの助手を雇ったって噂になってますけど、大学の人じゃないですよね?」 「ああ、彼はうちの清掃員だ」 「うちって……ご実家の?」 「いやいや、実家に清掃員はいない。大学の、だ」  蓮介が笑うと、学生は「それはないですよ」と首を振った。 「あれから構内でも会わないし、あんなイケメンがいて気づかないわけないです」 「探してたのか?」 「め、目の保養に……」  確かに、大江は背も高くスタイルもいい。遠巻きに見た蓮介でさえ目を引かれたのだ。学生が放っておかないのもわかる。 「君たちが見かけないのだとしたら、特殊な場所を担当しているのかもしれないな。もしかして、紹介してほしいとか、そういう話か?」 「めッッそうもない! あんなイケメンが私となんて一番の解釈違いなんで!」 「そ、そうか……」 「ただ、どこの誰なのか知りたいだけです」 「なんだか、鬼気迫るものがあるな……」  構内で見かけない――。  そう言われて気になった。蓮介も大江を見かけるようになったのは最近だ。それも、構内で見かけたのは一度きりで、あとは研究室でしか会っていない。臨時派遣か何かだろうか? 「…………」  一度気になると止まらないのは研究者の体質か。  蓮介は帰るついでに庶務課へ寄ることにした。
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