安倍晴親

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安倍晴親

 昼過ぎ。蓮介は一人で京都の中心地にある大学を訪ねた。  迎えてくれた教授は半袖の白いコットンシャツを着こなすロマンスグレーの男性だった。民俗学の観点から日本における怪異の地域的特色を研修しており、目当ての記録にもすぐ思い至ったらしい。  蓮介が研究する歴史学と民俗学との違いは、歴史学が史料や記録をもとに過去の世界で何が起きていたか明らかにする学問であるのに対し、民俗学は伝承をもとに生活文化の起源や歴史を再構成しようとする学問である点だ。 「お休みのところ、わざわざありがとうございます」 「いえいえ。家にいても妻に鬱陶しがられているだけでしたから、お話を聞いて喜んで出てきましたよ」  宝物殿の女性から大方の話は聞いていたようで、すぐに鬼火で山が焼けたという記録を見せてくれた。古い紙をコピーした紙束だ。中世の下級役人の日記だという。 「異類婚姻譚は悲劇が定番ですけど、当時の婚姻制度からしても、熱愛が描かれているのは珍しいように思いますね」  女性から聞いた通り、記録には恋人の死を悲しんだ鬼が火を放って山火事を起こしたと書かれていた。相手は陰陽師と聞いていたが、徹底してカラクリ箱を秘密にしたことに関係するのか、鬼の相手や箱については記載がない。総合的に考えて同じ出来事と見るより他ないが、それだけではない。 「関係者を皆殺しに……? 山火事の記録だけではないんですか?」 「ええ。恋人を酷い目に遭わせた関係者を皆殺しにしたと。以降、鬼の話が出てくることはありません。私は歴史学者ではないので、その関係者が誰かまで深追いしてませんが、倉橋さんは気になるところかもしれませんね」 「そう、ですね。いや、今までこんな記録を知らなかったなんて……」 「データにもなってませんし無理もないですよ。おまけに貴族でもない、下級役人の日記ですからね」 「あの、差し支えなければコピーをいただいても?」 「構いませんよ。該当する場所だけですか?」 「はい、ありがとうございます」  手に汗が滲む。昨晩蓮介が見た夢は鬼が死ぬ夢だったが、鬼の顔が大江だったこともあり、記録を読んだだけで鬼の深い悲しみに共感し、その情景を想像できてしまう。  大江が言っていた安倍晴親を辿ることができれば、カラクリ箱の真実に近づけるかもしれない。しかし、教授に訊いてもそれらしい記録は残っていなかった。
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