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シャワーから戻った大江は平然としていた。備えつけのバスローブに身を包み、バスタオルで煩わしそうに髪を拭いている。
「角は? 今の君はとても鬼に見えない」
「感情が高ぶりでもしない限り出てこない。鬼隠の里にいた頃は半端者とからかわれたが、角がないだけで人間社会に紛れ込めるんだから有り難いもんだ」
大江の冗談だったようだが、蓮介が笑わないでいると、すぐに口角を戻した。
「信じる気になったか?」
蓮介はゆっくり頷いた。
「祭り、来てくれてたんだな……」
「…………」
「助けてくれて感謝してる。助けてくれた人を疑ったりはしない。君のおかげで俺は無傷だ」
大江は意外そうに蓮介を見下ろした。
「鉾は、妖がやったことなのか? 頑丈に組まれた鉾が簡単に崩れるとは思えない」
「あんたの足元から無数の腕が出てた。妖にとって人間は余すことなく食える食料だ。肉や体液、精気、妖によって好みは分かれるが、特に能力の高い人間はどこをとっても美味い。台風の夜、妖に精液を絞り取られそうになったのは覚えるだろ?」
一瞬、耳を疑った。
「あんたは夢だと思ったみたいだが違う。あんたの家の窓を割ったのは俺だからな。あのまま放っておいたら、あんたは爪の欠けらも残さず食われてた」
「な……」
「あんたは晴親の生まれ変わりだ」
「生まれ、変わり……?」
「魂の一部が封印されたままでは自覚もないだろうが、妖にとってはご馳走に変わりない。それどころか力を使えないなんて、ご馳走が食ってくれと丸裸で歩いてるようなもんだ」
「君はずっと、わかってて俺といたのか……?」
「あんたは目に見えないものは信じないし、俺も今回の件が落ち着いたらさっさと離れるつもりだった。言う必要もない」
そう言われると、ことさら胸が苦しくなった。
大江が親切にしてくれたすべてが、蓮介自身のためではないとわかってしまった。ときどき甘いように感じた空気も、蓮介を透かして晴親に向けられていたものだ。
「だったら、君はその、俺の傍にいたいと思うものじゃないのか? 君の恋人だったんだろう?」
「あんたは何か勘違いしてる。晴親が死んだのは殺されたからじゃない。自分の命と引き換えに、泰山府君祭で俺を生き返らせたからだ。もう二度と、辛い思いはさせたくない」
泰山府君祭は古文書にも残っている。
安倍晴明が得意とした術で、閻魔大王が管理する寿命の台帳を書き換えることで人の命を交換できるという。能力の高い陰陽師しか使えなかった術として記録されている。
「晴親は大江山で拾った俺に絆されて、永遠の命を共に生きると決めてくれた。しかし、それが一族にばれ、俺は晴親が留守の間に父の仇である頼光の子孫に首を跳ねられた。いくら回復力が高くても、首を切り離されて生きていることはできない。あんたも酒呑童子の説話はよく知っているだろう?」
聞きながら、夢に見た映像は夢ではなく『記憶』なのだと理解した。体の震えが止まらないほどの最愛の相手を亡くした悲しみは、過去に晴親が経験したものなのだ。
大江が目を覚ましたとき、晴親の魂は祟りを起こさないよう、めったなことでは復活できないよう、三つのカラクリ箱に分けて封印されたあとだった。
「それを聞き出したあと、関係者を皆殺しにして家や山を焼いた。カラクリ箱の一つを壊して、そんな箱なんて即刻開封して何百年経ってもいいから転生した晴親を見つけ出してやる。今度こそ絶対に晴親を守ると誓った」
「待ってくれ……っ。だったら、どうしてこの箱を開けない? 君は俺に開けるなと言っていたはずだ」
「晴親は陰陽師の中でも特筆して能力が高かった。能力に恵まれ、俺みたいな鬼まで寄ってきたせいで死んだかと思うと、残りの箱は開けられなかった」
大江はそう言うと、頭にかけていたタオルを外した。
「箱を持っていて、壊さずいられる自信がなかった。開封する力もない名ばかりの陰陽師に箱を残し、千年の間、何度も生まれ変わる肉体と箱を見守り続けてきた。箱を一つ壊してしまったから転生くらいできたんだろう。どの時代のあんたもこれといった能力はなかったが、おかげでみんな老衰だった」
大江が苦笑した。
「晴親はときどき、能力なんてない方がいいと言っていたが、まさにその通りだった」
妖は好きだが、親戚関係の面倒が嫌いなものぐさだったと。
「ただ、ガキのあんたが箱を開けたのは驚いた。妖が大騒ぎで焦って様子を見に行ったら、あんたの従兄弟に姿を見られた。それでその、嫌な思いをさせたのは謝る」
朔久鷹が見た鬼と百鬼夜行というのは本当だったのか。それだけではない。両親が死んだ日、蓮介だけ遠く離れた場所で発見されたのはおそらく――。
「ホテルから箱を持ち出したのは、あんたが開けようとしたからだ。やっぱりあんたが持ってるのが一番危なかった」
最後のカラクリ箱を開けて、蓮介がどうなるかわからない。それで蓮介から箱を遠ざけ、蓮介の見えないところから見守ってくれていたと。今までみたいに。
「俺は、君に裏切られたんだとばかり……」
「裏切るっていうなら、俺は千年ずっと晴親を裏切り続けてるんだろうな」
そう溢す大江の表情は見られなかった。
――もう限界だ……。
晴親の名前が出るたびに胸が苦しい。
見えないものは信じない。家業は霊感商法だと思い続けてきた。それでも鬼に惹かれてやまない自分を正当化できるよう、歴史学を仕事にした。
「俺は、大江くんが鬼だから惹かれたんだろうか?」
「何?」
「やっと人を好きになれると思ったんだが……」
今の大江はどこをどう見ても人間の青年だ。それでも蓮介は鬼に惹かれたのだろうか。大江にではなく。
「君にとって食事と同じなら、もう一度抱いてもらえないか?」
大江の体が強張ったのが伝わってきて、困らせているとわかった。
「箱の件が落ち着いたら、君はいなくなってしまうんだろう? その前に知っておきたいんだ。晴親のことはわからないが、俺が鬼に食われたいだけの歪んだ性癖なのか、それとも君だから好きになったのか。君はただ、食事をしてくれればいい」
ベッドに座る大江の肩に手を置き、蓮介からキスをした。啄むように何度もキスを繰り返し、おそるおそる舌を伸ばす。
「ん……っ」
本当に食事になっているのだろうか。蓮介に付き合わせているだけじゃないだろうか。
「君も、俺を美味いと思うのか?」
「ああ」
そう言われてホッとするはずなのに、食事以上ではないと痛感してしまう。
「角は出さなくていいのか?」
「出したくなったのか?」
「いや、そういうわけじゃない」
「じゃあいい。今のままの君がいい」
視界が反転し、チープなラブホテルの天井が見える。大江は苦い顔をしていたが、「美味い」と言ってくれているからと、気づかなかったふりをした。
抱かれる前から結論は見えていた。
確かに意識したきっかけは、大江が蓮介の見た鬼に似ていたからだ。大江のことが気になり近づきたかった。カラクリ箱目当てだったと知って傷つき、千年前に死んだ晴親に嫉妬して、今は大江の中に蓮介に向けられた感情はないか探して一喜一憂している。
鬼だからじゃない。大江が好きだ。
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