鬼を呼び寄せるカラクリ箱

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鬼を呼び寄せるカラクリ箱

 研究室に戻る途中、アトリウムの天井に大雨が打ちつけていた。七月に入ってから何号目かの台風だが、今回は関東を直撃するようで雨も風も酷い。上陸は夜だと聞いているが、外の薄暗さに引きずられて館内もどんよりとした空気が留まっている。  夏の雨特有の、湿気が肌に纏わりつく不快感と、濡れて滑りそうなフロアタイル。  心なしか学生の数もいつもより少ない。  蓮介も電車が止まる前に帰宅したいところだが、研究室には受付期間を延長したゼミの申込書が届いているはずで、鬼に興味がある学生がいるかどうか、確かめるまでは帰れない。 「倉橋先生! やっと帰ってきた!」  怒りを含んだ男の声が聞こえ、すぐに研究室のドアを閉めたくなった。  高く積みあがった大量の本の向こう、倉庫と勘違いされるほど雑然とした部屋の中からゼミ生が恨めしそうな顔を覗かせている。 「どこに行ってたんですか! 講義終わって三十分は経ってますよね?」 「いや、小腹が空いて購買に。君はまだ残ってたんだな。この天気だ、早く帰った方がいい」 「僕だって帰りたいのはやまやまです! 先生、他に延滞してる本はないですか?」 「ああ、頼まれてくれるのか」  見れば、ゼミ生の前には十冊ほどの本が積まれていた。どれも蓮介が図書室で借りたものだ。おそらく数ヶ月前に。  背表紙のタイトルを確認し、「これで全部のはずだ」と微笑む。 「他に見つけたら、帰りに自分で返しにいく」 「もう信用できません! 図書室に行くたび先生の延滞を注意される僕の身にもなってください!」 「それは……すまない。けど、本当にこれで全部だ。いや、司書には俺に連絡してくれと伝えているんだが」  蓮介は購買で買ったばかりのチョコレート菓子を本の上に載せた。ささやかな詫びのつもりだったが、「好きでキレてるんじゃありません!」と怒る姿を見て、そういえばそんなコマーシャルの菓子だったと思い出す。 「失礼しますっ!」 「ああ、気をつけてな」  他意はなかったが、数少ないゼミ生を怒らせてしまった。蓮介は余力で閉まっていく扉に苦笑した。  自分の噂は耳に入っている。  顔がよく講義は面白いがゼミには入るな。  第一に、研究と並行して蓮介の世話ができる猛者でないと耐えられない。世話というのは主に研究室の掃除だろうが、蓮介からゼミ生に頼んだことはない。綺麗好きなメンバーが多く、好きにさせていただけだ。しかし、あろうことか教務課からハラスメントの疑いをかけられ、今では一切の掃除を禁止にした。  研究室が倉庫状態でも蓮介としては問題ない。ある程度好きにできる研究室内で、インテリアに気を遣う教授もいる中、とにかく本棚の収納力を重視したのは蓮介だ。  第二に、倉橋ゼミの研究室は出る、らしい。怪奇現象が起きるともっぱらの噂だ。発端は蓮介が陰陽師の家の生まれだからだろうが、まったくとんだ噂が広まったものだ。おかげで既存のゼミ生まで研究室にいるのを嫌がる。  定員オーバーで抽選となった初年度から一変、三年目の今年は定員割れしてゼミの申込期限を延長することになった。  蓮介は机の書類に目を落とした。封筒がいくつかと、楽しみにしていたゼミの申込書が届いている。 「お、二人も来てるじゃないか。中世の民衆と宗教、あとは……中世の音楽」  どちらも研究に最適のテーマだ。しかし、期待していた鬼を研究したい学生はおらず、どうしても落胆してしまう。  同封の小論文は家で読もう。ファイルを鞄に入れていた一瞬、部屋の照明が落ちた気がした。蝋燭の灯りが揺れたときに近い、そんな照明のブレだった。停電とはまた違う。  キィ――。ドアの開く気配がして、ゼミ生が戻ってきたのかと思った。 「なあ、さっき電気が――」  積んだ本を避けるようにドアを見ると、前に立っているのはゼミ生ではなく、面識のない中年男性だった。えらの張った顔は蒼白しており、ジーパンやカーキのジャケットは雨に濡れたのか濃い色をしている。  不審者を思わせる風貌に蓮介の声も固くなる。 「どちらさまでしょう? 約束はしていないはずですが」  男は質問に答えず、蓮介に向かってまっすぐ歩いてくる。  とっさに手近なところにあった大判の辞書を引き寄せたが、男は懐から取り出した立方体の箱を机に置くだけだった。  約十センチ四方の大きさで、彩色の劣化から年季を感じるが、彼岸花の螺鈿細工が施された美しい木箱だ。 「これは?」 「鬼を呼び寄せる。そう言われているカラクリ箱です」 「鬼を呼び寄せる?」 「ええ。鬼と言っても、目に見えない病の類ではございません。鬼は鬼、先生がご専門の妖です」 「はあ……」  本家に同じような柄の木箱があった。しかし、鬼を呼び寄せる箱の話は聞いたことがない。  蓮介の戸惑いをよそに、男は木箱が平安末期から伝わるものだと説明を続けた。 「中を知りたいのですが、簡単に開封されぬよう百を超える仕掛けが施されておりまして、私のような素人では手も足も出ません。ぜひとも倉橋先生に、この箱を開けていただきたいのです」  男の口調は事前に話す練習でもしていたかのようだった。焦って名乗り忘れたのか、こちらから名前を訊いて初めて、男をサトウだと知った。それさえ偽名のようだが。 「サトウさん、申し訳ない。私の専門はあくまで記録や文献の中の鬼だ。今回の件ではお力になれそうにない」 「いいえ、先生しかいらっしゃいません。今日参りますまでに何度もご著書を拝読しました。先生が鬼に心酔されているのを見込んでのことです。箱を開けてくださるだけでいいんです」  内容の熱量に反し、男の顔は無表情のまま動かない。男は蓮介が渋っているとでも思ったのか、また懐に手を入れると、今度は茶封筒を机に置いた。 「こちらは謝礼です。三束包みましたが、不足でしたら次回追加でお持ちします」 「は……ぁ?」  初対面の相手に呆けた反応をした。 「では二週間後に来ますので、それまでに」 「なっ、こんなことされては困る! 待っ、うわっ!」  すぐにサトウを追いかけたが、机に足を引っかけ、雪崩を起こした本に行く手を阻まれた。  蓮介が廊下に出たときには、男の姿は見えなくなっていた。 「倉橋先生、廊下にまで紙屑を飛ばさないでください!」 「ああ、申し訳ない」  通りすがりの職員が呆れながら紙屑を拾ってくれる。 「やだ、びしょびしょ。これ、いります? 何書いてるか読めそうにないですけど、捨てておきましょうか?」  何の紙屑が廊下に飛んでいったのか。手のひら大の白いメモのようだが、読めないものは最早ゴミだ。 「あの、助かります。ありがとう」  愛想笑いをすると、職員は気を良くしたのか「廊下の清掃お願いしておきますね」と歩いていった。  研究室に戻り一人絶句する。  ――面倒なことになった。  サトウが置いていった茶封筒には間違いなく現金三百万が入っている。連絡先は教えられていない。 「まず、守衛室に電話だな……」  カラクリ箱に興味がないと言ったら嘘になる。  何せ『鬼を呼び寄せる箱』だ。 「……朔久鷹に確かめるか」  改めて見ても、カラクリ箱には見覚えがあった。  本家にいた頃に朔久鷹と蔵で見つけ、弄っていた弾みで開封してしまった箱だ。朔久鷹や大人たちが大騒ぎし、蓮介は地下室で反省させられたので覚えている。  朔久鷹もあれから、蓮介が好奇心でいたずらをしないか目を光らせるようになった。  何度かの呼び出し音のあと、『どうしたの?』と明るい声が聞こえた。 「俺だ。今いいか? いや、外か?」 『東北。ちょっとなら大丈夫だよ』 「東北? この前まで京都だったじゃないか」 『京都は家の用事ね。今回は仕事。で、蓮介から電話なんてどうしたの?』 「頼まれてほしいことがある。昔、俺が開けたカラクリ箱を覚えてるか?」
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