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「おい、起きろ!」
「ん……」
頭が痛い。蟀谷を刺すような痛みに蓮介は顔をしかめた。瞼を持ち上げて、目が部屋の明かりに慣れるのを待つ。
「あ、い、たたた……」
部屋には嫌というほど見覚えがあった。
天井付近にしか窓のない六畳の和室。床の間には安倍晴明の掛け軸――。幼い頃、蓮介が閉じ込められていた半地下の部屋だ。唯一あった窓は先日の改修工事で塞がれてしまっている。
「大丈夫か?」
肩を引かれ、蓮介はハッと振り返った。タクシーで別れたはずの大江だ。
「もう一時間も……?」
「いいや、三十分も経っていない。待っていて良かったことなんて今までなかったからな、無視した」
「君な……」
「二度と後悔したくない」
端から蓮介の言うことなんて聞くつもりはなかったということか。
立ち上がると、頭痛に加えて眩暈があった。ふらつく体を支えられる。
「それに、来て正解だった」
そう言われては何も言えないが、朔久鷹の狙いは大江だ。
「入ってくるときは平気だったか? 朔久鷹や叔父には?」
「誰にも会わなかった」
大江は裏門から屋敷の中に入ったらしい。蓮介の気配を辿って部屋に辿りついたというのだから、鬼はすごい。大江に腰を抱かれながら足早に出口に向かった。
外は雨脚が強くなり、歩くだけでズボンに泥が跳ねた。
「タクシーで戻ってきたのか?」
「ああ。裏で待たせてある」
庭を抜け、あとは裏門を出るだけだった。しかし、屋敷の外まであと数歩のところで大江が膝から崩れ落ちた。
地面についた両手両膝は泥だらけで、顔にもいくつか泥が跳ねている。
「大江くん……っ!」
「うっ……、っ……」
呼吸ができないのか、大江は汚れた手で苦しそうに首元を掻き毟り始めた。頭からは二本の角が伸び、唇からは人よりわずかに大きい犬歯が覗いている。
鬼の様相を呈した大江に蓮介は言葉を失った。
「どうし……」
大江の背中を摩りながら周囲を見渡す。砂を踏む音が聞こえ、母屋から陰陽師の正装を纏った朔久鷹が出てくるのが見えた。唇に二本の指を立て、ぶつぶつと何かを唱えている。
「蓮介、退かないと鬼に食われるよ。死ぬ間際に凶暴になるものだから」
朔久鷹が一歩近づくたびに、大江の体が地にひれ伏していく。その体を支えながら蓮介は大江の体をきつく引き寄せた。
「だったらお前が止めてくれ……っ」
「止めたら俺が死ぬ」
「な……っ、彼はそんなことはしない!」
「蓮介に懐いてそうだし、もしかしたらそうかもね。けど、そいつが死ぬ前にもし俺が術を止めたら、全部俺に跳ね返ってくる」
「それは……」
人を呪わば穴二つ――。朔久鷹は本当に大江を調伏しようとしている。
絶句していると、大江が蓮介の体を突き飛ばした。
「いっ! っ……」
大江は自分の体を抱きしめて震えていた。その目はじっと蓮介を見つめていて、まるで蓮介を自分から逃がそうとしていた。
「蓮介、早くこっち!」
朔久鷹の声が急かす。
「俺は、離れたくない……」
鬼に食われたい――。
物心ついた頃からそう思って生きてきた。
大江に抱かれたとき、自分が食われることを性的な意味と履き違えていただけかと思った。しかし、目の前で苦しむ大江を見ていると、やはり自分は食われたいと思う。それで大江が苦しみから解放されるなら。
蓮介は泥だらけの大江を抱きしめた。
「やっぱり言ったとおりだ……。君を助けられる能力を持って生まれたかった……」
蓮介ではこの状況を変えられなくても、晴親ならどうにかできただろう。大江にだけ聞こえる声で「約束、守れなくてすまない」と伝えた。
「……っ、おい、待て……っ」
大江が止めようとする。しかし、大江のポケットからカラクリ箱を掴み、手の動くまま蓮介はカラクリ箱の仕掛けを解いた。
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