美しい鬼 ★

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美しい鬼 ★

 悪天候で公共交通機関が止まり、自宅までタクシーを利用した。車を降りるとマンション前は足首まで浸水していて、エレベーターホールへ走っただけで、ベージュだったスーツは濃い茶色に変わった。風が強く、外廊下でも目を瞑りたくなる量の雨が叩きつけてくる。 「札が……」  玄関に鍵を差し込みながら、ドア横に貼った鎮宅霊符が半分ほど剝がれて翻っているのが見えた。蓮介の引っ越し早々に朔久鷹が妖避けとして貼ったものだ。  少し考え、札を剥がしてジャケットのポケットに押し込む。そもそもマンションの玄関先に貼るにはデザインが禍々しく、朔久鷹の丸文字も相まって怪しさは計り知れない。実際、両隣の住人はすれ違っても目を合わせてくれない。怪しい宗教にハマっていると誤解されている可能性は大いにある。  部屋に入ると、肩の力が抜けたのか全身に疲れを感じた。濡れた靴下のままリビングへ行き、自分の濡れネズミぶりに溜め息が出る。 「はあ……」  蓮介の家は一人暮らしにはゆとりのある2LDKだ。リビングにはダイニングテーブルとソファーセットを置いているが、ダイニングテーブルは仕事部屋から溢れた本や書類で埋もれ、今や第二の仕事机と化している。  通勤鞄はフローリングに置き、ジャケットとシャツ、スラックスはクリーニング用の袋に押し込んだ。週に一度、本家から通いの家政婦が来てくれているのだが、脱ぎ散らかさないよう口酸っぱく言われている。  軽くシャワーを浴び、薄手のパジャマを羽織ってキッチンに移動した。  髪は濡れているが、食事のあとで乾かした方が自然乾燥されていて多少時短になる。作り置き総菜をレンジで温めながら、持ち帰ったカラクリ箱と封筒をソファーテーブルに出した。 「鬼を呼び寄せる、か」  朔久鷹いわく、蓮介が開けたカラクリ箱の中は空だったらしい。おまけに箱を開けた夜、朔久鷹は百鬼夜行を見たそうだ。妖が見えない蓮介には覚えのない話だったが、朔久鷹や大人たちが大騒ぎしていたのは、それだったのだろうか。  非現実的な話で、蓮介には親族が集団幻覚を見たのではないかと心配になる。  職業としての陰陽師にしても、明治時代の天社禁止令――陰陽寮の廃止以降は、占いや霊感商法に類するものと思えてならない。 『あの箱を開けてから、蓮介は妖に襲われやすくなった。信じなくてもいいから大人しくしてて!』  まだ幼い頃、好きに立ち回る蓮介に朔久鷹が泣きそうな顔で言ってきた。  妖が視える朔久鷹が、周囲から距離を取られていたことも知っている。しかし、視えないものを信じられなくても、真剣に話す朔久鷹を無下にはできなかった。心配性で、昔から面倒見のいい従兄弟だ。  従兄弟以上の感情を向けられていることには、気づかないふりをしているが。  今回も、朔久鷹が東京に戻るまで開封しないようにと、心配をかけている。 「そもそも怪しすぎて開ける気にならないが――」  開ける気にはならないが、歴史学者の端くれとして、鬼のいわくがついた背景は知りたい。 「箱……、箱……」  鬼が笛を愛する記述は古文書にも時折見られる。 『十訓抄』朱雀門の鬼の笛や、かの酒呑童子も笛を愛していた。平安時代、笛は専門職とされ、技術者が吹くものだった。そんな笛を愛するというのは、古代の人が鬼を教養ある存在としていた証拠だ。  しかし、カラクリ箱は見聞きしたことがない。 「鬼学会に問い合わせるか……いや、今より面倒なことになるか」  学者の中にも鬼が実在すると信じている者はいる。カラクリ箱を見せろと言われたら説明が面倒だ。  サトウが箱を開けたい理由は、鬼を呼び寄せたいからだろうか? 藁にも縋る思いで鬼を呼ぶ必要があるのか、近年の鬼アニメブームに影響されているのか。  ピーッ、ピーッ、ピーッ――。  電子レンジに呼び出され、立ち上がったときだ。  仕事部屋の方で何かが落ちる音がした。 「ああっ、しまった……」  部屋を覗けば、書類が雪崩を起こしていた。本の原稿用紙や参考資料が床に散らばっている。机に高く積んでいたから無理もないが、今日はやけに雪崩が多い。 「いっそカゴでも置くか……」  適当に書類をかき集めて机の上に戻す。  自覚するところだが、こういう片づけ方を続けた結果、仕事部屋は散らかり、自室にも関わらず失くし物が出たりするのだ。 「箱は金庫に入れておくか……」  蓮介の部屋には、貴重品用の金庫が作りつけられている。幼い頃に何度か強盗被害に遭っていることと、蓮介のものぐさな性格のせいで、マンションを購入するときに親戚につけられてしまった。  金庫に入れるほどの物もなく、ほとんど持て余していたが、今日の預かり物は絶対に失くせない。  金庫にカラクリ箱と三百万円を仕舞い、ついでに日課のノートを持ってリビングに戻る。今日の分は食事をしながら書いてしまうつもりだった。  中学の頃は思わなかったが、ノートに感謝や鬼の夢を記録する行為は一種の認知療法だと思っている。鬼に惹かれるあまり、人間を嫌いになってしまわないための。 「今日は、本を返却してくれた彼と、ゴミを捨ててくれた職員の女性……くらいか」  他に何かあったか。  ノートに視線を落としたまま総菜を咀嚼する。  今日一日を思い返そうとしたところで、バチンと音がして視界が暗転した。 「ん?」  目を瞬かせたが視界は暗いままだ。 「停電か?」  カーテンを開けて外を覗いたが、雨粒の向こうにビルの明かりが見える。  このマンションだけ停電したのかと思ったが、両隣は問題なく電気が通っているようだった。ブレーカーの原因も考えたが、部屋の照明くらいしか電気は使っていなかった。  スマートフォンのライトを頼りにブレーカーを確認したが、案の定落ちた様子はない。 「はあ……」  これ以上考えたところで、自力で解決できる気がしなかった。家政婦に一報入れ、明日も来てもらえないか頼んだ。 「…………」  暗がりの中、スマートフォンの画面が眩しい。 「寝るしかないな……」  まだ二十二時にもなっていないが仕方ない。暗がりの中で食事を続ける気は起きない。  ベッドに入り、髪がまだ濡れていたことを思い出したが、それもどうしようもなかった。蓮介はいつもより二時間ほど目覚ましを早めて目を閉じた。 「…………」  ベッドで横になっていると環境音に意識が向く。  蓮介の部屋は最上階だから下の階の住人か。ダダダ、ダダダ、と走るような音が頭上ら辺から聞こえる。  ――足音はこんなにも響くのか。  いつもはもっと遅い時間に眠るから気づかなかった。  隣がベランダを開ける音もそうだ。油が足りないのか、女性の金切り声に似たイイイ……という音を立てる。しかし、こんな天候の日に何度もベランダを開けるなんて隣も停電だろうか。外は嵐が激しさを増しているようで、窓枠がカタカタと揺れてうるさい。  有り難いのは部屋の中が涼しいことだった。研究室では冷房を入れていたが、帰ってきてからというもの部屋が涼しい。これで部屋が暑かったら、冷房もつけられず熱中症にでもなるところだったが、今は寒いくらいだ。意識が落ちる寸前、蓮介は全身に鳥肌が立つのを感じた。  ――何か、生臭い。  次に目を開けたとき、視界はまだ暗いままだった。慣れない時間に寝たせいか、途中で目が覚めたようだ。やけに寝苦しい。  ――何時だ……?  時間を確認しようとしたが体は動かなかった。まるで四肢を何かに押さえつけられているようだったが、自由の利く眼球だけで周囲を窺うも、異常に寒いこと以外、室内に変化はない。  ――ただの金縛りだ。  金縛りになりやすい体質のようで、過去にも何度か経験がある。疲労の自覚はなかったが、確かに昨日はいろいろありすぎた。異臭の原因がさげ忘れた夕食の惣菜ではないか気になるものの、じっとしていればじきに動けるようになる。  息を吐いたとき、何かが肌の上を這った。 「っ!」  足首から脹ら脛、内腿へ。手首から二の腕の柔らかい部分を通り胸に。得体の知れない感覚――人の手のような感覚が体の上を這いずり上がってくる。 「ぁ……っ!」  慌てて布団の上を見たが、平然としており見える限り何も起きていない。  ――金縛りじゃない、夢か?  しかし、下肢を這っていた何かが性器に辿りつき、柔らかい陰茎を握る感覚はリアルだ。あまりの気持ち悪さにぞっとした。  茂みのある根本から滑らかな先端にかけて執拗に往復する。射精を促すような動きに、自分は欲求不満だったのかとぼんやりする頭で考えた。  恋愛と呼べるものは経験がないうえ、自慰も必要最低限しかしないが、それにしても酷い夢だ。幹への摩擦に加えて、先端から滲む雫を吸われている気がする。 「……っ、ぅ……」  部屋には風雨の音と自分の浅い呼吸音だけが聞こえていた。いや、耳鳴りのせいで音を判別できないだけかもしれない。  先端に吸いついていた何かが、もっと深くにある蜜を求めて細い管の中に潜り込んでくる。自分の嬌声が耳につき、経験のないおぞましい感覚に体が強張った。 「ひっ、ぃ……、っ、ぁ」  どうなっているかわからず怖い。陰茎への刺激と同時に、尿道を細い管が行き来する。 「っ、……ぅ、っ、……っ!」  強張る体を諫めるように、胸を這っていた感覚が両胸の突起を捉えた。搾乳でもするように小さな尖りをきゅっ、きゅっと擦られる。性器、胸、強すぎる刺激から逃げるように蓮介の体はじりじり背中を浮かせた。 「ぇ……、あ?」  背中が限界まで弓形になったときだ。膝をあげるように脚を掴まれ、ありえない感覚が後孔に触れた。何かを押し込もうとする感覚だ。 「な、ん……、っ、か、はっ、ごほっ」  異臭が濃さを増し、蓮介は吸い込む空気に咽た。咽るたびに体が熱をあげ、射精欲が増す。  ――さすがに、もう起きた方がいい……。  そう考えたくらいでは今日の夢は終わらなかった。リビングの方でガラスの割れる音がして、続けて寝室に何者かが入ってくる。  ――鬼……?  朦朧とする意識の中でもそう認識できたのは、頭から二本の角が伸びていたからだ。鬼は背が高いのか、八頭身はありそうなシルエットが美しかった。 「ちっ……」  鬼は大股で近づいてくると、蓮介の掛け布団を剥いで床に落とした。空気が動き、生臭い匂いが一気に緩和される。  不思議だったのは、布団の下で服が乱れていたことだ。パジャマの前は開き、ズボンや下着は身に着けていなかった。張り詰めた性器が何かに引っ張られるように天井を向いている。 「ふざけるなよ……」  鬼は低い声で唸った。蓮介の体の上から何かを掴み、両手で絞めあげた。潰れるような音が耳に届く。  この夢はそういう設定なのか、蓮介には見えなかったが、何かが繰り返されるうちに体は楽になった。唯一、性器内に残る感覚を除いて。  今にもはちきれそうなのに、ピッタリ蓋でもされたように吐精できない。幹の中ではずっと何かが暴れている。 「っ、ぅ、あ――っ!」  痛みにも似たおぞましい感覚に声が漏れた。 「これも、これも取ってくれ……っ!」  声に涙が滲む。我を忘れて懇願すると、舌打ちをした鬼がその刀身に口を寄せた。開いた唇の隙間から大きな犬歯が覗く。  ――食いちぎられる……! 「んんんんんっ――!」  そう覚悟したが、待っていたのは腰の奥からせり上がる快感だった。中をきつく吸われ、何かを排出するとともに白濁を鬼の横面にぶちまけていた。 「は……、……ぁ」  解放感で胸が何度も上下する。  鬼は顎に滴る残滓を指ですくい、そうすることが当たり前であるように舌で舐めとった。その艶めかしい行為さえ見入ってしまう。  とんでもない夢だ。もしかしなくとも『鬼を呼び寄せる箱』を預かったせいで、抑圧していた鬼への興味が夢に現れたのだろうか。  ――どうせなら食われてみたい……。  局部を食いちぎられる恐怖心は早々に薄れ、積年の欲望が頭をもたげる。  蓮介は動けるようになった体を起こし、足の間にいる鬼の手を握った。自分より大きい手だった。爪は長く、触れられれば簡単に肉まで切れそうだ。 「俺を、食ってくれないか……?」  顔を近づけると、暗闇の中でも鬼の顔立ちがはっきり見て取れた。史料から予想していた以上の美男で、切れ長な二重の目は美しく、見ているといっそう食われたい願望に拍車がかかる。 「幼い頃からずっと、鬼に食われたいと思っていた」  ――こんなに美しい鬼が、自分の肉や骨に牙を立てるのだろうか。想像できない。しかし、夢でくらい欲に素直になってもいいだろう。  現実では鬼に会うことも、まじまじ立派な角を見ることもできない。  蓮介は鬼の角に手を伸ばした。少しざらついた、乾燥した皮膚のような触り心地だった。動物の角とは少し違う。  鬼はぶるりと体を震わせ、頬に残っていた蓮介の白濁を手の甲で拭った。それを舐めとり、夢か……と溢している。 「なら、望み通り食ってやる――」  言われて喜んだのも束の間だった。  唇を塞がれ、味見でもするように口腔を蹂躙された。  飽きた頃に食われるのだろうか。絵巻物では頭から食われている人間ばかりだが。  しかし、呼吸が追いつかなくなった頃、鬼から与えられたのは牙が皮膚を破く痛みではなかった。臀部のあわいにある窄まりが押し広げられる鈍い痛み。 「あっ、っ、あ……っ!」  何かの滑りを借りているのか引き攣れる痛みはなかった。ただ、腹の内側を侵される圧迫感や衝撃に、揺すられるたび悦ぶ声が漏れる。  ――食われたいというのは、こういうことだったのか? 鬼に抱かれたかったのか?  全身に広がる強烈な快感の中、蓮介は意識を手放していた。
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