大江

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 一限目まで二時間以上余裕のある構内は閑散としていた。人が少ないせいで、歩いている人がいるだけでその存在に意識が向く。  嵐の翌日ということもあり、空はいつになく高く明るいが、足元には落ち葉や小枝、ゴミが散らばっていた。それを車輪に巻き込みながら、ガーガー音を立ててキャリーバッグを引きずる蓮介は気まずいほどに人の目を引いていた。 「え……」  その中に、一際視線の強い男がいた。  足を広げ、猫背気味にベンチに座っている男だ。  八頭身以上ありそうなスタイルの良さに、日差しの下ではピンクが透けて見える焦げ茶の髪。遠巻きに見てもわかる美形ぶりだ。頭に角はなく、服も黒いTシャツにジーパンと至ってカジュアルだが、間違いなく夢で見た鬼だった。  鬼が構内のベンチに座っている。  開いた口が塞がらない――。 「倉橋先生、今日はずいぶん早いですね。それに大荷物だ」  男に釘づけになり、後ろから同じ学科の教授に声をかけられても気づけなかった。  息をすることさえ忘れていた。 「倉橋先生?」 「っ、え、あ……っ。おはようございます」 「どうかしましたか?」 「え、いえ、知り合いに似た人がいて……」 「知り合いですか?」  大ベテランの教授と挨拶を交わす最中も横顔に視線を感じる。しかし、蓮介が視線を戻したとき、そこにもう男の姿はなかった。 「誰もいないようですが、何かに化かされましたかな」 「いえ、気のせい、だったみたいです」 「今日も暑いですからな。お互い、倒れないように気をつけましょう。そういえば、先生のところはゼミ合宿はどうされるんでしたかな」  他愛もない雑談をしながらも、蓮介の頭には美しい男の強い目線がこびりついて離れなかった。  研究室にキャリーバッグが入らず焦ったが、なんとかして雑務を終え、午後のゼミが始まる前に図書室に滑り込んだ。鬼とカラクリ箱にまつわる史料を探したかった。 「閲覧制限区画のカードキーをお借りしたい」 「倉橋先生。国史大系の十六、十七巻、今日が返却期限ですから」 「ああ、いや、今日のゼミで使う予定で、終わったら持ってきますから」  国史大系は日本史研究の基礎となる古典籍を体系的に網羅した叢書だ。蓮介の研究室にも揃えてあるが、何せ大量の本に埋もれて取り出せない。 「わかりました。信じてますね」 「はは……」  司書の言い方に、自覚する以上に信用されていないことを痛感する。 「今日は鞄をお持ちなんですね。……そんなに借りるおつもりなんですか?」  じっとりした司書の目が、カラクリ箱と三百万の入った鞄に向けられた。 「いや、これには人からの預かりもので」  部屋を片づけられれば、ここまで信用を失うこともないが、すべて自分が悪いので何も言えない。  しぶしぶ閲覧制限区画のカードキーを貸してくれた司書に礼を言い、図書館奥の階段でワンフロア下に降りた。  マンモス校と言われる大学の図書館は設備も蔵書も充実している。分館を含めると五つの施設があり、その蔵書は全体で百九十八万冊。ほとんどが開架になっているが、古文書など稀少本は許可制の閲覧制限区画に保管されている。  学生には公開していない貴重本の棚と棚の間を進み、日本史古文書のエリアで関連のありそうな本を探す。 「鬼を呼び寄せる箱、はないか……」  カラクリ箱の歴史は古くて江戸時代。箱根で考案されたものが最初らしい。平安時代に百以上の仕掛けを施した箱を作るのは、技術的にありえるのだろうか。どんな用途で作られたのか。元の持ち主は誰だったのか。そもそもサトウの話を鵜呑みにしていいのか。 「朔久鷹の返事によっては、フィールドワークも候補に入れるかな」  タイミングの良いことに、大学は今週末には夏休みに入る。地方へ情報収集に出かけるには最適だった。  調べ物を切り上げ、研究室へ戻ろうとしたときだ。 「ん?」  何度カードをかざしても、退出用のカードリーダーが反応しない。閲覧制限区画の入室認証システムにはアンチパスバックが設定されていて、入室記録のないカードでは退室できないようになっているが、一人で入室した蓮介がカードをかざし忘れたわけもない。  仕方なくドアノブ下にあるサムターンの非常カバーを壊したが、サムターンを捻ろうにもびくともしない。  おまけにスマートフォンは圏外だ。 「これは、弱ったな……」  誰かが入ってくるのを期待しようにも、閲覧制限区画の利用率は頭を抱えるほど低い。ゼミが始まるまでの一時間で、誰かが入って来たとしたら奇跡だ。  誰か中にいないだろうか。  念のため本棚を順に見て歩く。 「すまない、誰かいないだろうか?」  やけに自分の声が反響して聞こえ、蛍光灯の「ジジジ……」という音まではっきり耳につく。革靴がフロアタイルを踏む音はうるさく感じるほどだ。 「誰か――」  ふいに近くで床を踏む音がした。キュッと、運動靴が滑るような音だ。 「誰かいるのか? 入り口の鍵がかかってしまったようで、解錠を頼めないだろうか?」  部屋の奥へ足音を追いかけていく。しかし、追いついたところで、そこには誰もいなかった。聞き間違えるわけがないほど大きな音だったにも関わらず、だ。  カタン、ギギギ……。  すぐ横で気配がして振り向いた。 「誰か――」  蓮介は声をあげようとして固まった。  棚がスローモーションのように、ドミノ倒しのように蓮介の方へ倒れてくる。 「え――、……っ!」  厚さ十センチを超す辞典の数々が次々に床へ落ちる。頭を庇った腕に重い痛みが走る。  棚の下敷きになる覚悟をしたが、しばらく経っても構えていた衝撃は訪れなかった。本が床に叩きつけられる音に混じり、ゴキッと何かが折れる音がした。それが最後だった。 「っ、……ん……、ん?」  物音が落ち着き、おそるおそる顔をあげると男に庇われていた。顔をしかめているが間違いなく美形――今朝、構内で見かけた男だ。いったいどこから――。 「君、あの……、助かった」  声をかけると、男は棚を押しやるなり何も言わず立ち去ろうとした。しかし、蓮介がハッと腕を掴む方が早かった。 「君!」 「……っ!」  息を飲むような男の反応に、とっさに手を引っ込める。 「っ、すまない。しかしその、怪我をしたんじゃないか? すぐに救護室へ――」 「問題ない」 「問題ないって、そういうわけにいかない……っ!」  先ほど聞こえた聞き慣れない音は、骨が折れた音ではないのか。大判本も何冊も頭に落ちてきたはずだ。  男のおかげで蓮介は無傷だが、もし一人きり、あのまま本や棚の下敷きになっていたら、今頃死んでいたかもしれない。 「怪我はない」  だとしたら、先ほどの反応はなんだったのだ。たいして力を入れていないのに、腕を掴まれただけで痛そうにしていた。 「そんなに嫌なら、俺の研究室でもいい。頼むから少し休んでいってくれ。それに、礼もさせてほしい」  今度は男の服を掴んだ。  今度こそ蓮介が離さないとわかったのか、男は心底嫌そうに息を吐いた。
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