大江

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 男は大江(おおえ)と名乗った。大学生にしては落ち着いていると思ったら、構内で清掃員をしているらしい。年は蓮介より下というが、敬語はいらないという割に素っ気ない。  夢で見た鬼に似ていると思ったが、おそらく先に大江を構内で見かけ、あまりの美形ぶりに夢に鬼として出てきたのだろう。  今朝の夢を思い出すと申し訳なさと恥ずかしさで表情が強張る。  大江は居心地が悪いのか、硬い表情のままソファーに座って部屋の中を見回している。来客用のソファーセットだが、本で埋もれていた四人席のうち一席を慌てて開けた。 「本当に怪我はないか?」 「ああ」 「すごいな。倒れてきたのは本棚だぞ?」  あのあと、蓮介の持っていたカードキーであっさり扉は開いた。接触の問題だったのだろうか。司書に閲覧制限区画でのことを話すと青ざめて走っていったが、ひとまず怪我がなかったことを安心された。  大江の前に両手大のスペースを確保し、玄米茶を入れた湯飲みと、使い捨てのプラスチック容器に入ったみたらし団子二本を置く。 「せっかく来てもらったのにお茶だけというのもな。苦手でなければ食ってくれ、そこのみたらしは美味いんだ。注文時に団子を焼いてくれるんだが、昼に行ったらなんと最後の二本だった」  和菓子が好きで、大学近くにある何軒かの店を日替わりで利用している。ひんやり喉ごしのいい水羊羹や水まんじゅうも夏の楽しみだが、季節問わず選んでしまうのが、焼き目のついたみたらし団子だ。仕事柄、脳が糖分を欲するのか五本くらいならぺろりと平らげてしまう。 「あんたの分は?」 「また買ってくる。遠慮せず食ってくれ」  面倒くさがってコーヒー用のペーパードリップで自分用の茶を落としていると、視界の端で大江が眉間にしわを寄せた。  茶の入れ方だろうかと思ったが、大江は一本を咥えると残り一本を容器ごと蓮介に寄越した。 「いいのか?」 「いいのかも何も、あんたのもんだ」 「それは、嬉しいな。さっきのことで肝が冷えて、癒やしが欲しかったところだ」  最初から一本ずつ分けて食べるより嬉しい気がする。  甘いものが好きなのか、それとも歴史書に興味があるのか。無言ながら大江の表情が先ほどより柔らかい。 「歴史が好きなのか? さっき図書館で会ったのも古文書のコーナーだったろう。それもなかなかマニアックな。ここで気になるものがあれば好きに読んでくれて構わない。俺はしばらく研究室を空けるが」  大江と目が合い、心臓が跳ねる。 「実はあと十分ほどでゼミが始まる」 「そうか。なら俺は帰る」 「待ってくれ……っ。その、もし歴史が好きなら見学に来ないか?」  本来、学生以外の見学は受け入れていない。しかし、大江とはもう少し話してみたい。深く考えず、私情で引き留めていた。  ざわつく学生五名の視線を浴びながら、大江は部屋の隅でゼミを見学していた。 「おほん……っ。こら、レジュメに集中するように」  一時間のこととはいえ、軽率だったかと後悔した。  蓮介のゼミでは、平安時代に編纂された法典『延喜式』を全員で読み解いていく。今日の章は陰陽師が取り仕切った追儺――節分の原点とされる儀式についてだった。  陰陽師という題材は通常、学生の引きが強いのだが、今日に限っては大江の圧勝だった。教室で一番真剣に蓮介の話を聞いていたのが大江という有様だった。  ゼミの間、大江の反応は終始薄かったが、すぐに帰られなくてホッとした。 「一ついいか?」 「質問か? もちろんだ」 「あんたがさっき話してた二つの『大江山』だが」 「大江山?」  鬼世界のスーパースター・酒呑童子の本拠地とされる『大江山』には二つの説がある。丹後国(京都府与謝野町)にある説と、山城国(京都市)と丹波国(京都府亀岡市)境にある説だ。どちらにも根拠となる資料があり、安易に断定できないという話をした。 「あれは京都市の方だ」 「ほう……。どうしてそう断言するんだ?」 「当時、陰陽師・安倍晴明の占いによって鬼の居場所は京都の西と言い当てられた。源頼光らが山伏と偽って鬼隠の里に入った記録は残っているだろう?」  大江は嫌そうに言い切った。  丹後国説を拭いきれておらず言い切るには弱いが、話しぶりに鬼への思い入れを感じて好感を持つ。  蓮介は興奮を隠しきれず、頷く大江の両手を掴んだ。 「君が持論を持っているほど鬼好きだったとは! そうか、君は『大江』だしな。もしかして自分のルーツとの関連を考えたことも? ああいや、これは俺の突っ走り過ぎか」  学科内に歴史好きは多いが、大江のように蓮介相手にも自分の意見を述べられるほど情熱のある者は少ないのだ。 「とにかく、君の主張は素晴らしい。鬼についての意見交換は大歓迎だ。君が学生なら研究室にスカウトしていたところだ」  スカウトできない清掃員なのが悔やまれる。 「あんたこそ、そんなに鬼が好きなのか?」 「好きだ。君もそうじゃないのか?」 「……、まあ……」 「そうか! 大江くんとはいい友人になれそうだ!」  興奮して距離を詰めすぎたらしく、後ずさりした大江がテーブルに腰をぶつけた。次の瞬間、音を立てて本や書類が床に散らばった。 「ああ……っ! すまない、鬼の話になるとつい興奮して……っ」  大江は蓮介より早く本を拾い始めた。一枚ずつ書類を拾う蓮介と違い、本の種類を確認しながらテキパキ机に積んでいく。 「整理整頓が苦手なのか?」  呆れを含んだ声色に「いやー」と言葉を濁す他ない。 「苦手ってもんじゃない。どちらかと言うと、できないに近いな。大江くんは清掃員だけあって、さすが手際がいい。君のようなプロがうちの部屋も引き受けてくれると助かるんだが」 「そういうのは助手がやるんじゃないのか?」 「助手? ゼミ生の好意に甘えることはあるが、さすがに俺から頼むことはないな。職員にハラスメントの疑いをかけられてからは止めているくらいだ」  そう言いながら、はたと思い至る。 「大江くんが雇われてくれないか? 退勤後の気が向いたときだけで構わないし、報酬も仕事と同じ時給を払おう」 「金を出すなら他のやつを雇えるだろ」  それはそうだ。しかし、研究室の清掃というのは口実に近い。 「なんだろうな。鬼が好きという共通点はもちろんだが、不思議と、大江くんとはもっと話してみたいんだ。どうだろう? 馬が合う気はしないか?」  蓮介が訊くと、大江は呆気にとられた顔をしていた。困り顔が思案顔に変わり、やがて降参したように「わかった」と息を吐いた。 「引き受けてくれるのか?」 「稀にしか来ないぞ」 「もちろん、君の都合に合わせてくれ!」 「あと、礼は茶菓子でいい。金はいらない。本格的に掃除をしてほしいなら業者に頼め」 「わかった! なら、今度はもっといろんなおすすめを用意しておこう」  興奮気味に胸の前で合わせた手が、柏手でも打つようにパンッと音を立てて慌てた。  自覚する以上に浮かれている。良い友人になれると、大江も思ってくれたのだろうか。
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