史学科准教授の鬼神純愛譚

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 鬼に食われたい。  倉橋蓮介(くらはしれんすけ)が初めてそう思ったのは七歳の頃だ。  蓮介の家は安倍晴明を先祖に持つ陰陽師の一族で、他所の家にはない、古く歓迎されない風習を残していた。  七歳までは神のうち――。そう言いながら子どもを育て、七歳までに陰陽師としての素質があるかを見極める。素質のある子どもは分家の子でも本家へ、素質がない子どもは本家の子でも分家へ、養子として移される。子殺しこそしないが、本家の子を間引きするのだ。  蓮介にはまったくその素質がなかった。たとえば、両親、叔父、従兄弟、誰もが見えている妖を、蓮介だけは見ることも感じることもできなかった。当然、異能力を扱うこともできない。幼い蓮介は泣いて拒んだが、例外なく分家である倉橋家に出された。  その前夜だ。  蓮介は初めて鬼の夢を見た。  頭に生えた立派な二本の角が美しく、一目見ただけで鬼に食われたい衝動に駆られた。  それから二十年以上経った今でも、頻繁に鬼の夢を見る。見るたびに鬼に魅せられた結果か、そういう指向なのか、気がついたときには鬼しか好きになれなくなっていた。           *  平安京の郊外。  先日まで鬼隠の里があった山麓にその屋敷はあった。  風通しの良い寝殿造りに、周りを囲む開放的な庭園。桜の花びらが浮かぶ庭池では、小さな野鳥が水を飲む姿を見られる。しかし、その優美ささえ、屋敷を訪れる者は気味悪がった。  辿りつくまでにいくつも禁足地を抜けるうえ、住んでいるのは人嫌いの陰陽師ただ一人。なんでも、庭池には陰陽師に呪殺された人間が沈んでいるという噂だ。  噂が本当なら、秘密を知った人間を生かしておかないと思うが、人の噂はところどころ頭が悪い。 「おい、どこだ!」  男の野太い声が屋敷に響く。返事がないことに痺れを切らしたのか、玄関からこちらに向かい、板の間をずかずか歩いてくる音が聞こえる。怯えた鳥は羽音を立てて飛び立ってしまった。 「ぎゃっ!」  すぐ後ろで汚い悲鳴があがった。振り向けば、上質な藍色の狩衣をめかし込んだ男――源頼光が庭に立つ美しい少年を見て唇を震わせている。 「やあやあ、頼光殿自らお出ましだったとは大変失礼いたしました。この通り鍛錬の最中で、手が離せず式神に行かせた次第」  ゆったり笑いながら、両手のひらを正面に立つ少年に向ける。まるでぽこぽこと繰り出される少年の拳を受け止めている口ぶりだが、二人の間には見えない壁でも存在するのか、拳は一つだって手のひらに届かない。  客人の出迎えを終え、控えていた式神が形代に戻ったが、頼光は水干姿の少年から目を離さない。  少年の焦げ茶色の髪は日に透かすと桃色に見えて美しい。健康的な肌とくっきりした目も、見る者に将来の美貌を期待させる。 「お前、ついに気が触れたか……」 「と、申しますと?」 「お前が相手にしているのは鬼ではないか!」  頼光はそう叫ぶと、少年の頭に生えた小さな角を両手で掴んだ。驚いたのか痛いのか、少年が目を剥いて暴れる。その暴れぶりはさすが鬼の子だ。 「ああ、泣くな泣くな」 「泣いていない! おのれ、覚えておれ!」 「おおっ! さすが俺が見込んだ鬼だ。威勢がいいな」  頼光から庇うように子鬼を抱きかかえ、角にふっと息を吹きかける。これでもう痛くないだろう、と。 「半妖の子どもにございます。先の大江山の鬼退治で両親を討たれ、途方に暮れておったところを式神に迎え入れました」  頼光が戸惑うのがわかった。 「半分は人の身ゆえ、飢えない限り人肉は食らいませんし、こつを掴めば意のままに角を隠すこともできる。人と鬼とが共に暮らす日も近こうございます。現にここの生活に馴染むのも早かった。――茶の入れ方は覚えておるな?」  子鬼は嫌そうな顔をしたが、微笑みかけるとしぶしぶ頷いて厨へ向かった。 「あやつ、仇討ちなど考えておらんだろうな?」 「仇討ち……はっはっはっ!」  思わず腹から声が出た。もちろん、頼光も遠くで控えている付き人も誰も笑っていない。 「私が存命のうちはご安心ください。食うならまずこの俺を、と教えております。しかしまあ、頼光殿にとってはこの家は少々居心地が悪いようだ」  頼光はわざとらしく咳払いをした。まぎれもなく、大江山の鬼――酒呑童子の首をはねたのは頼光とその配下だ。 「それで、今日はどんな用で?」 「父上の様態が芳しくない。すでに健康な下男は手配しておるゆえ、例の術を頼みたい」 「それは下男が自ら望んだのでしょうか? 人の命の寿命を交換するのです。そうでなければ人殺しだ」 「ぐ……っ」 「こんなヤミ陰陽師をご指名されずとも、都には兄者らもおります。私と違って官僚の身。融通も利き、貴殿も扱いやすいでしょう」  頼光に胸倉を掴まれる。 「変人のお前が家を持ち、食に困らずいられるのは異能の力あってのことだと忘れるなよ! お前しか泰山府君の祭ができんのをいいことに――」  細く軽い体が宙に浮きそうになったところで、縁側にドンッと湯飲みが置かれた。入れたての茶は半分以上板の上に零れている。 「……茶だ」 「こんっの小僧……っ!」 「頼光殿」  呆れを孕んだ低い声だった。 「いい返事ができず申し訳ございませんが、この手の話は引き受けかねます」 「はっ! 晴明の才はお前にしか引き継がれんようだったからな。こちらも仕方がなく訪問したまでだ」  騒がしい男は帰るときまで騒がしい。 「兄者らが聞いたら泣きますな」  屋敷が静かになったところで、湯飲みに残った茶を啜る。せっかく少年が入れたものだ。しかし、飲んで一口で湯飲みの中を確かめた。 「もしや、出がらしで入れたな?」  言い当てると少年が唇を尖らせる。その表情があまりに愛らしく、思わず吹き出して頭を撫でた。 「勇敢な男とは思っていたが、気も利くとは! お前が立派な鬼になるのが俺の何よりの楽しみだ」
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