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 今日もまた、やりがいのない仕事が終わった。今日は金曜日なので明日は仕事がない。そして家にはあの家内、いや、「妻」が待っている以上、早く帰る気にはならない。その必要もない。  別に妻が嫌いなわけではないし、寧ろ愛情は結婚を決意した当時から失っていないと自信を持って言えるが、普段の家の雰囲気は決して良いとは言えなかった。妻も特段自分に返ってきて欲しいとは思っていないだろう。その為、金曜日はいつも居酒屋に寄って、ただ無為にアルコールで自身の人生に対する「無力感」を紛らわせている。新規開拓をするのも億劫なので、いつも行く店は決まっている。人でごった返しても、寂れてもいない特筆すべき点はない一般的な居酒屋だ。強いて言うなら、牛すじはメニューの中でも美味い。  とにかく、新規開拓なんざ仕事で十分だ。私は繁華街を抜けて飲み屋街へと足を進めた。    「おい、野田じゃねえか!」  その底抜けに明るい声にはどこか聞き覚えがあって、アルコールの沼に片足を突っ込みつつあった私の意識を強烈に揺れ動かした。声がした方を向くと、色黒の中年がこちらに向かって歩いて来ていた。来ているスーツは青で、七三分けのツーブロックに熱い胸板がジャケットを圧迫していた。顔はしっかりと中年だが、妙に迫力のある男だ。 「俺だよ俺、横山!高校以来じゃねえか?」  記憶を閉じてある瓶のコルクを抜く必要も無く、その名前を聞けばとめどなくあの頃の情景が湧き出して来た。何せ、こいつは私と二遊間を組んでいた男だ。 「お前、20年以上経っているというのに良く私だと気が付いたな。しかもその席からじゃあ横顔くらいしか見えないだろう」 「なーに言ってんだ、3年間苦楽を共にして来てコンビを組んでたお前を間違えるかよ」 「そう言って、他人の空似だったらどうするつもりだったんだ」 「そん時はそん時だな。お前とまた話せるかもって可能性があんなら、そんな事は些細な事だろ?」  見た目や職業、お互いの立場は色々変わっていても、こういう所は本当に昔から変わっていないな、と皺が少し目立つ横山の顔を見て思った。思わず笑みが溢れる。思えば、きちんと笑えたのはいつ以来だろうか? 「積もる話もある事だしよ、ちょっと同じ席で話さねえか?連れが嫁さんのコールで呼び出し喰らっちまってよお、俺は飲み足りないから1人でまだ飲んでたんだ」  断る理由など無い。二つ返事で了承した。  そこからは、横山が高校時代に私にショートのポジションを奪われ唇を噛んでいた事や、そこから発起してセカンドにコンバートして部内でも名コンビとして切磋琢磨した事など、兎に角高校時代の部活動の話に花を咲かせた。  本当に私達はあの頃、白球のように野球をする事以外に何も考えていない純粋な少年だったのでそれも無理はない。仕事の話も家庭の話も自然とする事は無かった。長年会って居なくても、お互いが今どの様な境遇で、自分の人生に対してどう向き合っているのかは何となく理解していた。私達に余計な言葉は不要だ。 「お前、今でも野球はやってるのか?」  そんな中で、横山が現状について唯一質問をして来た。それでも野球関連とは、本当にこいつは変わっていない。 「野球は大学野球をやっていたが、卒業後からはやっていないな。どこか限界を感じてしまった」 「いや、そうじゃねえよ。草野球とか、少年野球チームの監督とか、幾らでも方法はあるだろうが」  成程、そういう事か。人生も半ばを過ぎて、私はこの「結果」に対する精算を迫られる様な気がして競技者としては野球から距離を置いて居た。その為思い出にふける事はあれど、実際にプレイする事は無かった。 「全くだな。忙しくてやる暇もなければ、今道具がしっかり取っておいてあるのかも定かじゃない」 「嘘だろ、お前ほどの逸材が勿体無い。俺からショートのレギュラーを奪って、絶対にプロ野球選手になるって吹いてた男が今やインテリ眼鏡か。時代も変わったもんだなあ」  私の視力の衰えで時代の変化を感じられても困る。そういえば、私の「夢」はプロ野球選手だったか。もう一個は確か、今はもう叶えた事だ。 「…そうだな、よし、決めたぞ!」  少し考え込む様な所作を見せてから、横山は唐突にそう言った。 「お前、俺の今やってる草野球チームに今週の日曜参加しろ。明後日のな。場所は河川敷Bグラウンドでやる。お前はここで燻っちゃいけねえ人間だ」  本当にこいつは唐突な奴だ。まるで決定事項の様に強く、そう断言した。 「今週は特に予定も無いが…でも、野球なんてもう何十年もやってないぞ。そんな人間が参加しても足手纏いになるだろう?」 「そんな事は関係ねえんだよ。お前は俺のライバルで、俺はお前のライバルなんだ。そして最良のコンビでもある。だからお前は来るしかないんだ。俺とお前なら、絶対天下を取れるぜ」  中年が一体何の天下を取るというのか。取り敢えず「考えておく」とだけ答え、その場で参加は表明しなかった。横山は「それでも良い。お前は必ず来るんだからな」と言い、席を立った。どうやら帰るつもりらしいが、そのタイミングすら唐突だ。 「そういえば」 「何だ?」  席を立ち、かけていたジャケットを羽織ったタイミングで横山が口を開いた。 「お前、高校時代自分の帽子の裏に何て書いてたか覚えてるか?」  高校球児は自分の座右の銘だったり、決意や仲間の名前など帽子の裏に文字を書くことが多い。いつから定着した慣習なのかは分からないが、とにかくそれはかつてそうだった私達も例外では無い。中には「甲子園」とでかでかと書く球児も居たくらいだ。 「…もう覚えていないな、何せもう20年以上前の話だ」 「俺ははっきり覚えてるぜ」 「何て書いていたんだ?」 「グラウンドでは頭を使え、だ」  こいつに?と思わず噴飯もののワードが出て来て驚き失礼ながら笑ってしまった。そんな私の様子を気にも留めず、横山はさっさと店を出て行った。あいつとあいつの連れの分の会計まで私が払う羽目になった事に気が付いたのは、そのワードに対する笑いが収まってからだった。
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