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6 断髪
信号が変わる。いつまでも後部座席を振り返っているわけにはいかなくなった志岐はハンドルを握り直したが、進路を変え、近くの大型商業施設の駐車場に車を停めた。
屋上の、ひと気のない駐車場の隅。
エンジンを切った志岐だが、その場から動こうとはせず、言葉をかけてくることもなく、気まずいようないつも通りのような沈黙が数分間ほど続いた。
待っている間、私は窓越しに空を見上げていた。
あれはヒヨドリだろうか。白い毛で覆われた一羽の鳥が空を横切っていくのが見えた。
見えなくなったあとに、キーヨ、キーヨという独特の鳴き声が遠くから聞こえてきて、私はふ、と口を緩めた。
「……オレは小夜子のこと、好きだよ」
おそらく偶然だろうが、志岐がようやく口を開いたのはその瞬間だった。
緊張感からか、周囲の音がすべて断絶されたかのような錯覚を覚えた。
「でも、それはたぶん、憧れ、みたいな感情の一種で……」
「私が兄さんの妹だから?」
曖昧な言い回しで言い淀んでいる最中に、私は容赦なく斬り込んだ。
志岐は軽く息を吐き、ひと呼吸置いた。
「……そう。たぶんそうだ。『妹』というだけで玲司に可愛がられている小夜子が……いつも同じ家で暮らしている小夜子が、ずっと羨ましかった。成長して、玲司に顔が似てきたのを見て、同じ血が流れているんだ、というのを目の当たりにして、嫉妬みたいな感情を覚えるほどだった」
私は口端をつりあげて笑った。
「志岐がなりたかったのは、兄さんの恋人であって、弟とかじゃないんでしょう?」
「そうだ。でも玲司と深く繋がっていられる場所にいたかった」
病的なまでの執着。
ハンドルに両手をついてうなだれた志岐は、私とは一度も視線を合わせないまま気持ちを吐露している。
私はふと、あることを思いついた。
「私の家に婿入りすれば、兄さんと同じお墓に入れるかもしれないわよ」
わずかだが、うなだれたままの志岐の頭が持ち上がる気配があった。
「兄さんと同じ名字になれる。兄さんの『家族』になれる。それって、とっても素敵なことだと思わない?」
そんな露骨な餌を与えてまで志岐のことが欲しいわけではなかった。
ただ、こんな言葉に踊らされて人生を変えてしまう男がいるのもおもしろいと思ったのだ。
「…………玲司は、なんて思うかな」
つい興味をそそられて後部座席から身を乗り出して覗き込んだ横顔には、苦渋がにじみ出ている。
腕と髪の隙間から覗いた目は、やはり過去にいなくなった男のことしか見てはいなかった。
それがとても、気に入った。
「ずいぶんなことだ、と呆れられてしまうかもしれないわね」
私は笑みを浮かべながら軽い口調で答える。
「でも、兄さんならきっと、『それがおまえの選んだ道なら好きにすればいい』って言うわ。そういう人だもの」
空っぽの助手席のシートに、私は未開封のミルクティーの缶を置いた。これは私が買った分。
兄は今もここに座っている。少なくとも、私たちの間では。
このメーカーのミルクティーは、兄がよく好んで飲んでいたもの。
私はそれを真似して飲むようになって、今ではすっかり味も気に入っている。
「私の中の兄さんは私のもの。志岐の中の兄さんは志岐のもの。それを共有しようだなんて思わないわ。でも、他の人にはこういう気持ち、決して理解してもらえないと思うから……。私たちは多分、一緒にいることが苦しい、という気持ちが消えることはないけど、だからこそ他の人じゃ駄目なのよ」
もともと、喋るのはあまり得意ではない。
兄さんを失ったあとの私はずっと、必要最低限の言葉しか口にしないように心がけて生きてきた。
少し、喋りすぎたかもしれない。慣れないことをしたせいで喉に違和感を覚えて、私は黙り込む。
昔の私はお喋りだったけど、今よりもずっと不器用な言葉しか使えなかった。
とりとめのない言葉を重ねるうちに自分でもなにを言いたかったのかわからなくなってきて、言葉を詰まらせる私に、兄さんは簡潔で明瞭な言葉で私の気持ちを代弁してくれた。そして、欲しかった答えをくれた。
でも、幻想の中の兄さんは、もうなにも語ってくれない。
だから自分の言葉で語るしかなかったが、そう上手くはいかないのだった。
「……ごめん、なんて言っていいのかわからない」
「そうね……」
志岐もまた、言葉は得意な方ではなかった。
本心を隠すための言葉は上手だ。だけど、本心を伝える言葉を使うのはてんで駄目で、兄さんの前でも、いつもなにか言いたげに視線を泳がせていた。
それからまたしばらく黙り込んでいた志岐がようやく口を開いたのは、屋上にもう一台、車がやってきた頃だった。
「……小夜子、その髪、切ってくれないか?」
だいぶ離れた場所に停車した車からは、赤ちゃんを連れた家族連れが降りてきた。
「え?」
「切ってくれたら、なんでも言うこと聞くから」
志岐は赤みを帯びたまなじりを、こちらに向けていた。
私は、なにを求められているのかを察した。
「……いいわよ。兄さんと同じ長さにしてくればいいの?」
迷うことすらせず、私はすぐに後部座席のドアをあける。
この商業施設には確か、美容院が入っていたはずだ。
榛色の目が瞬き、驚いた様子でこちらを見つめてくる。
「今から行くのか?」
「お金は持ってるから問題ないわ」
振り返ることなくスタスタと歩いていく私のあとを、志岐は落ち着かなさげについてきた。
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