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無いことの証明は、難しいという。
彼が私に、そう教えてくれた。
聞くところによると、私はマンションの階段から落ちて頭を強打し、しばらく昏睡状態だったらしい。目覚めると、彼との……いや、それどころか一切の記憶が無くなっていた。
手持ちの身分証明書から、私自身のことは分かってきた。家族も泣きながら(それは嬉しさと悲しさからくるもので、少々申し訳ない気持ちになったのは記憶に新しい)私に色々なことを話してくれた。
彼とは一人暮らしを始めた後に会ったようで、家族と離れていた期間のことは、彼が鮮明に教えてくれている。病室の白さは目に眩しいが、まっさらな中に少しずつ増えてきた生活用品や手土産の数々が、不安な気持ちを少しずつ紛らわせてくれていた。
「無いことの証明は、難しいんだよ」
彼はよく、そう言う。私が焦っているのにら気付いているからだと思う。
家族があれこれと話す話はどこか絵空事で、同意を求めるような、けれど曖昧に濁すような声色は、正直なところ気持ち悪かった。
思い出の品を持ってくることも多かった。卒業アルバム、寄せ書き、好きだった本やCD。私の名前が書いてあるものも多いが、信用して良いのか、と思う。「家族」の証明だって危ういと思うのだ、その家族が持ってきたものを信用する道理がない。
吸水するための土台に下地でも塗られているかのように、記憶の破片は私を滑り落ちていく。そんな不安を、なぜか彼には話すことが出来た。彼は私の交際相手らしい。
「例えば、『家族である』ことの証明は簡単だろ、書類とか。ただ『家族ではない』ことの証明だと、途端に曖昧さが出る。連絡はあまり取り合ってなかったとか、書類は無いけど事実上そばにいるとか。」
書類なら役所に取りに行けるよ。
「んー、この場合の家族は事実関係というか。ほら、だって交際関係だって書類は無いし」
曖昧さに指を引っ掛けて弛ませるように、彼は私の話を引き出す。軽やかに笑う姿に軽薄さを感じつつも、悪い気はしなかった。私の感情に言葉を混ぜて薄めようとする彼に、悪意は感じないからだ。
じゃあ、この関係も証明できないね。
そんな棘のある言葉を伝える気は、ない。
正直、家族ですら腫れ物に触れるように扱ってくる今、彼の一貫した態度、とりとめのない会話に癒されている自分がいるからだ。なかなか難しいと思う。私だったら動揺してしまう。自分の大切な人が急に記憶喪失になり、「あなたはだあれ?」とか言い出すのだ(数日前の自分である)。
家族は、私が大切な人だから動揺している。
彼は、私が大切な人じゃなかったから、動揺していない?
ふと、そんな思考が頭をよぎった。それはあり得なくもない。意外と冷え切った関係だった可能性はある。雨降って地固まるというか、災い転じて福と成すというか。
私の記憶は、消えたのだろうか。
私は記憶を、消したのだろうか。
「無理しなくていいから、ね」
彼が背中をさすりながら、耳元で囁く。その感触に既視感があることは、気付かないことにした。
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