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彼は扉を開けた真正面にいた。
直後、見えない何かにぶん殴られたような衝撃が全身を走った。身体が震え始めた。一刻も早く逃げ出したかった。
私はしばらく動けなかった。
順路通り歩くなら彼の目の前を通り過ぎなければいけなかったのだが、提示された矢印に沿う責務を放棄したくなるほど慄いた。
私の内に生まれたのは紛れもない畏怖だ。
大いなる彼の姿を直視できなかった。それでも理性は働き、背後から押し寄せる人の邪魔にならぬよう、視線を下に向け、お気に入りのスニーカーが舗装されたタイルの道をうまく踏み締めているのを確認して平穏を保とうと努めた。
しかしどうにも気になり…けれど自分で確認する勇気はなく…同行者に彼の名前を尋ねた。同行者は数歩後戻りしてひょいと彼の足元を覗き込む。ネームプレートを確認したことによると、彼はタビビトノキというらしい。
私は再度戦慄した。
なんとふさわしい名だろうと思ったのだ。
彼は足を持たない樹木だ。
私のように電車を乗り継いだり、パスモのチャージ金額を気にしながらバスに乗ることもない。静かな温室にどっしりと構え、土から栄養を補給し、限りある空に葉を開かせている。
彼はあの温室から一歩も動くことはない。それでも自由に動き回れる私なんかよりもよっぽど、彼は動いている。そう思った。
生きる。
普段意識していない行為であるからこそ、突如目の前に形を持って現れると恐ろしい。彼の放つ暴力的な生命の光が、ぼんやりと温室の扉を開けた私に予告なく降りかかってきたのだ。
旅人の木は震える私に指摘した。
死することが怖いのか。
そのせいで生きることをも恐れるか。
後日、彼のことを調べた。さだめし私と同じ感覚を持った人間が彼を名付けたのだろうと思ったが、そうではなかった。
東西に開く葉が道標になっているだとか、葉に水分がたんまり含まれており旅人の喉を癒すだとかがその由来らしい。
なんと傲慢なことよ。
彼は人の為に生きているわけではない。葉を扇状に伸ばすのも、葉の部分に水をたっぷり保持しているのも、彼が生きるために選択した結果である。
彼は彼のために生きている。
彼はどこにも行かずに旅をする。
彼は生命そのものであった。
ああ、寡黙で動かぬ旅人よ。
私も貴方のように生きれたら。
この足で大地を均し、愛すべき人を愛し、か弱き声を張り上げ、塵と消える前に命を燃やし尽くせたら。
その時は、この世界が美しいと錯覚しよう。
生きとし生けるものを祝福しよう。
目的を持たぬ命に心からの賛美を捧げよう。
そのため私は私に言い聞かせる。
大丈夫、死ぬだけだ。
生きることは怖くない。
たった一度死ぬだけなのだ。
生きることは怖くない。
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