第3話 足りない壺

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第3話 足りない壺

 壺と木箱を抱えて法廷を出たチェティたちは、明るいところで確認しようと、すぐ隣の筆写室の入り口の机にそれを広げた。  筆写室は文字通り、書記たちが巻物を書き写したり、書類を作成したりする部屋だから、書き物がしやすいよう、日中は光が十分に差し込むように作られている。  入ってきた弟とネフェルカプタハの姿を見つけて、奥の自席にいたジェフティが顔を上げる。  「おや、チェティ。仕事はどうしたんだい。耕作地のほうに出かけていたんじゃないのか」  「そこでまずいものを見つけたんで、こちらで調査してもらおうと思って持ち込んだんです。内臓壺ですよ」  「ふうん…。盗掘の疑いあり、か。」 ジェフティは、ちらとだけ石の壺に目をやってから、すぐに手元の書類に視線を落とした。  「それなら、神殿内には詳しい者もいるだろう。今は繁忙期のはずだ、ほどほどにな」  「はい。依頼だけしたら、役所に戻ります」  「あ、そうなのか?」  「うん、今日の分の仕事は終わったけど、まだ書類の整理とか色々あるし。この箱を踏み抜いた同僚も心配だからね」 実際には、心配なのはその同僚のヘンレクではなく、彼に持ち帰ってもらった書類の無事のほうなのだが、…それは、言わないでおく。  「そっか、土地の測量の時期なのか。もうそんな季節か―…」  「神殿所領のほうも、神殿づきの書記の人たちが測量に出てるはずだよ。」  「どおりでここ数日、この部屋に書記が少ないと思ってた」 ネフェルカプタハは、筆写室と、そこに付随する書庫とを眺め回した。  普段は数十人の書記が常に勤務しているこの部屋だが、今日は、裁判や重要書類などを担当する数人の書記以外は、みな出払っている。  メンフィス大神殿の管理する神殿所領は、それなりの面積がある。州の管理地ほどではないにしろ、測量し直しや耕作人の割当てには、それなりに手間がかかるだろう。  「――で、だ。」 壺のほうに視線を戻して、ネフェルカプタハは首を傾げた。  「なんで、三つだけなんだ?」  「え? 何か、おかしい?」  「この壺は、本当なら四つで一組なんだよ。内臓壺を守護するのはホルスの息子たち(ホル・メスゥト)っていう四柱の神々でな。壺ん中にはミイラ(サァフ)作りの時に抜き取った内臓を入れるんだが、それぞれ、守護神と中に入れる内臓の組み合わせが決まってる。ほれ、ここに書いてあんのがその守護神の名前」 ネフェルカプタハは、黒光りする壺の表面を回して、すり減った文字の刻まれた面を指した。  「”ケベフセヌエフ”…成る程。これが神様の名前なんだね」  「そそ。んで、こっちが”ハピ”、”ドゥアムトエフ”…ああ、足りないのは”イムセティ”だな。肝臓を入れる壺だ」 壺を机の上に並べたあと、彼は、それらを眺め回してうーんと唸った。  「他に文字は刻まれていない。持ち主の名前は無し、かぁ…」  「うん。いちおう確かめはしたけど、木箱の方も、装飾だけで名前は無さそうだった。」 壊れた木箱の中には、三つの壺以外には何も入っていない。箱の装飾は、かつて色が塗られていたらしい痕跡のほか何も残っておらず、しばらく埋もれていたせいか、朽ちかけているようにも見える。そして黒光りする石の壺も、つるりとして、神名と分かった文字以外には、蓋の裏に生命と永遠を示す印があるだけで、何の手がかりも刻まれていない。  「こいつぁ厄介だな。」  「だよね。でも、造りはきれいだし、たぶん良い職人を使ってる。街の石工の所に持ち込めば何かわかるかも」  「んだな。よし、んじゃ、そっちは調べとくわ。あ、ちなみに見つけた場所って、北の耕作地のどのへんだ?」  「ネチェリケト王のピラミッド(メル)が正面に見える辺り、かな。残り一つの壺が無いかは、明日、改めてもう探しておくよ。それじゃ、よろしく」 それだけ告げて、チェティは、慌ただしく役所の詰め所に戻って行ってしまった。さすがにこの時期は、雑談をしている時間も無いのだ。  残された壺と木箱を眺めながら、ネフェルカプタハは考え込んだ。  「うーーん…しっかし、壺の蓋に神像を刻んでないのも、持ち主の名前も何も書いてない、っつうのも、珍しいな。中身は…?」 壺の蓋を開けてみると、泥が詰まっている。たとえ以前はそこに内臓が納められていたのだとしても、既に腐り果てて跡形も無くなっているようだった。  「…使用済みかどうか、わかんねーな、これじゃ」  「あまり見かけない形の壺ですね」 気がつくと、後ろにジェフティが立って覗き込んでいる。  「ジェフティさん、さっきの裁判の書類、作らないといけないんじゃなかったのか?」  「ああ。もう出来ましたから、あとは写しを依頼すればいいだけですので」  「……。」 相変わらず、人間業とは思えない速さだ。それでいて、書き間違いもなく完璧な書類を仕上げてくる。  チェティもたまに、とんでもない速さで仕事をこなすが、兄の方はそれに輪をかけて、訳の分からないことをやってのける。  「これから、街の石工のところへ行かれるつもりですか?」  「おう、その予定だけど」  「巧く当たりがつくと良いですね」 何やら含みのあることを呟いて、彼は、書き物机のほうに戻りつつ、側にいた書記に指示を出す。  「この書類の写しを二部作って、大神官様に署名をいただいてくれ。今日の裁判結果だ。一部はここで保管、残りは訴訟人たちに」  「かしこまりました」 席に座ったジェフティは、すぐに別の仕事にとりかかろうとしている。おそらく、ここ最近ずっと手掛けている、街の防衛についての考案だろう。  下流の州が造反し、独立を宣言した、という報せが届いたのは、つい先日のこと。  このメンフィスは、国土の中心であり、下流の州と首都イチィ・タウィの間に位置している。もしも王を僭称する勢力が首都に攻め上がろうとするならば、ここは最終防衛線となる。  表面上は平和で、いつもどおりの日々が続いているこの街も、いつ戦火に巻き込まれるか判らないのだ。  ジェフティが州の執政官に打診した対応策だけでは、万全とは言い難い。彼の真剣な眼差しは、くだらない貴族同士の争いなど手早く終わらせて、本命の問題に取り組む時間が欲しい、という意志を、如実に物語っている。  ネフェルカプタハも、ジェフティの邪魔しないよう、そっと木箱を布に包んで抱えると、筆写室をあとにした。  いつもならチェティと一緒に出かけるところだが、州役人の仕事が繁忙期とあってはそうもいかない。  ネフェルカプタハは、一人で街の西部にある職人街に住む石工のもとを訪れた。職人街は同種の職人たちが集まって軒を連ねているが、石工たちの工房は、石材の運搬のやりやすい運河沿いのあたりに集まっている。街を取り囲む周壁のすぐ内側だ。  石工の仕事は、多岐にわたる。石像など大きなものを掘ること、王や貴族のための葬祭の道具を作ること――それ以外にも、護符や装身具など小さな品を作る職人もいるし、出来合いの品に文字を彫りつけるのが専門の職人もいる。  職人たちの店はどれも、入り口に担当する商品を並べて、そうと分かるようになっている。入口近くで石像を刻んでいる者もいるし、小さな装飾品を磨いている者もいる。  ネフェルカプタハが訪れたのは、その中の、葬祭道具を並べている職人のところだった。神殿の用事で何度か来たこともあるから、ある意味では顔なじみの店だ。  入り口あたりでは、見習い石工たちが師匠の素描を元に石を大雑把に削って形を作ったり、師匠の彫りつけたものの仕上げをしていたりする。中でも、砂を使って表面をなめらかに仕上げる仕事は大変だ。荒く編み上げた亜麻布や葦の繊維を使って、朝から晩まで石をこすり続けていなければならない。  「ちょいと邪魔するぜ。親父さんはいるかい」 声を掛けると、入り口に近い場所で石を磨き上げていた少年が、ぱっと顔を上げた。  「あっ、大神殿の…。はい、ちょっと待っててください」 慌てて奥に駆け込んでいく。  「親父さん、大神殿の神官さんが来ました」 奥から、工房の主である髭面の男が、のそりと姿を現した。  「ん、おお…こりゃ、ネフェルカプタハ様じゃないですかい。どうも、今日はどんなご用事で」 プタハ神は職人たちの守護者だから、プタハに仕える神官は、職人街ならどこでも歓迎される。ことに、催事で主役を務める高位神官は十人に満たないほどしかおらず、顔や名前がよく知られているのだ。   とはいえ、ネフェルカプタハは、歓迎されているのをいいことに大きな態度を取るようなことはしない。  「忙しいとこ悪いな。見てもらいてぇ品があるんだが…こいつがどこの工房で作られたか、アタリがついたりするか?」 言いながら、彼は手近な作業台の上に抱えていた包みを置いて解いた。中から出てきた壊れた木箱と黒い石の壺を見て、石工の師匠は眉を寄せた。  「こいつは、ずいぶんとまた古い形式の内臓壺ですな。一体どこから持って来られました?」  「州役人が、耕作地の測量中に掘り出したっつって持ってきたんだよ。北の方の耕作地だ」  「ふむ…いにしえの墓所に近い辺りというわけですかい。それなら、理由も想像はつきますな」  「古い墓から出たものかもしれねぇ、ってことか?」  「ですな。造りはかなり精緻なものですし、かつてこの街で作られたもんには間違いないかと。しかし、持ち主の名前が無いのは珍しい」 三つの壺をそれぞれひっくり返し、覗き込み、手触りや内側の彫り込みの跡を確かめたあと、石工の男は、ふと、木箱の方に目を留めた。  「それで、この箱は…?」  「ああ、なんか、その箱に入ってたらしいんだ。壺入れだろ?」  「いや、違いますな」  「違う?」  「さすがに、これだけ精緻な作りの壺を、こんな普通の箱に入れんでしょう。それに、壺が作られたのが大昔とすれば、箱が新しすぎます」  「ああ、そうか。畑に埋もれたままなら、とっくに腐ってるはず、か…」 ネフェルカプタハは、腕を組んで考え込んだ。  「ん? つうことは、誰かがこの箱にまとめて入れて、畑の隅に埋めた?」  「そんな気がします。木は、ほとんど腐っとりますが、何十年も昔のもんではないでしょう」  「ううん…。」 分からなくなってきた。  これらの壺がどこかの墓から盗み出されたものだとすれば、出元は大昔の墓地。それは確かだが、暴かれたのは、それほど昔ではないということか。  ただ、墓荒らしが出たという話は、ここ何年も聞いていない。  普通なら、盗掘すれば墓の入口が荒らされているとか、夜中に不審な明かりを見かけたとか、噂は聞こえてくるはずなのだが。  「王墓などから取られたものではないと思いますよ。王さまに収める品なら、必ず御名前は刻みますんで。」  「そうか、王墓じゃないならまだマシか。ありがとうな、――あんたらの仕事に、プタハ様の巧みな指の恵みがありますように」 ネフェルカプタハは、まじめな顔で職人たちに守護神の加護を祈る言葉を口にした。  「お役にたてたなら良かった。お気をつけて」 職人たちも、神妙な顔で頭を垂れる。  信者たちと神官のやりとりは、こんなものだ。  他の街ではどうかは判らないが、少なくとも、このメンフィスの街では。  持ってきた壺と箱を元通り包んで職人街を後にしつつ、ネフェルカプタハは、考え込んでいた。  壺自体には手がかりは無し、だ。それに、木箱が腐りかけているところからしても、大昔のものでは無いにしろ、埋められたのがここ最近というわけでもない。これ以上の追跡は出来そうにない。  せっかく暇つぶしができるかと思ったが、この件はきっとお蔵入りだろう。  そう思っていた。  大神殿に戻って筆写室を覗くと、ジェフティがまだ、自席で仕事をしていた。  「ジェフティさん、忙しいとこすまねぇんだが、この壺、預かっといてくれねぇか。適当に、倉庫にでも入れてさ」 ジェフティは巻物から顔を上げて、意外そうな顔をした。  「おや。もうよろしいんですか」  「ああ、工房で鑑定してもらったんだが、だいぶ古いものらしくってな。それ以外に手がかりも何もなくて、出どころのアタリはつけられなかった」  「ふむ…」 書記の青年は、数秒首を傾げていたあと、何気なく呟いた。  「この木箱が埋もれていた耕作地は、去年まではどうしていたんでしょうね」  「ん?」 去りかけていたネフェルカプタハが、立ち止まって振り返る。  「耕作地から出てきたものなら、去年の作付けの時に見つからなかったのは奇妙なことですね。その畑は、最近まで使われていなかったとかでしょうか」  「……。」 言われてから、ネフェルカプタハもそのことに気づいた。  「…そこ、調べてなかったな…」  「どうせ、うちの弟なら気づいて調べているでしょうね。その結果を聞いてからでも宜しいのでは?」 それだけ言って、ジェフティは意識を手元の巻物のほうに引き戻してしまった。  つまり、またチェティがやって来るまでは判断を保留にしたほうがいい、ということか。  ネフェルカプタハは頭をかきながら、夕方のお勤めに向かうため、筆写室をあとにした。
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