第6話 変調

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第6話 変調

 ネフェルカプタハが、ソベクイブラーを墓所に案内していたのと同日――。  チェティは、前日と同じように、耕作地の測量のために担当範囲の農地を訪れていた。  今日は、ヘンレクとは別行動だ。  前の日に考えた通り、体力のないヘンレクのほうは小舟で運河沿いの畑を巡るように指示を出している。それなら、彼の補佐で煩わされることはない。  まずは、昨日、壺が掘り出された畑へと向かう。  今日はそこに、鋤を引かせた牛を連れた農夫が居て、十年ほど休耕になっていたせいで締まってしまった土を、力いっぱいに掘り起こしていた。  「すいません。この畑の担当の方ですか?」  「ああ、そうだが」 蛇の形をした護符を首から提げた男が、汗を拭き拭きやってきた。首に下げた護符からして、蛇の姿を取る女神、緑なる者(ウアジェト)の守護地からやって来たらしい。海沿いの州の住人らしく、肌の色が少し薄い。  ウアジェトは湿地帯に多い蛇の毒から守ってくれる女神ではあるが、農地に蛇が出ることはこの辺りでもあり得るから、護符を身に着けていること自体は無駄ではないはずだ。  チェティは、できるだけ丁寧な口調で男にお願いする。  「昨日、ここで壺が幾つか見つかったでしょう。神官の話では、まだ足りないものがあるらしいんです。畑を耕していて、何か古い遺物のようなものが見つかったら教えて貰えますか」  「ああ、そりゃ構わないんだが。あれは葬式の道具と聞いたよ。そうなのかい?」  「はい。ミイラ(サフ)を作る時に抜いた内臓を入れる内臓壺なんです」  「ヒッ…内臓だって?!」  「中身がまだ入っているかもしれません。冥界神の神殿に引き取ってもらいます。なので見つけたら、触らずに声をかけてもらえますか」  「あ、ああ。分かったよ」 死者の体の一部が入っているかもしれないとあっては、好奇心や欲よりも、祟りのほうが気になるところだろう。  「けど、何で、この畑にそんなもんが…。なあ、お役人さん、この土地、呪われてたりしないよな?」  「それは無いはずですよ。でも、もし気になるのなら、種蒔きの前に神官に祝福に来てもらいましょうか」  「そうしてもらえると、ありがたいんだがねえ…。」 冥界神プタハは、大地の豊穣を齎す神でもある。冥界は地下にあり、全ての草木の種子は土の中の闇から芽生え、それらが根を張るのは地下世界だからだ。  土の下から齎される栄養が、地上の豊穣を約束する。  ――そんな教えも、ネフェルカプタハから教わったものだ。  農夫に念押ししたあと、チェティは、自分の仕事に取り掛かった。  とにかく早く仕事を終わらせたいという気分だった。いま水の引いて土地の見えているのは、全体の三分の一ほどの農地で、残りはまだ水に沈んでいる。見えている場所の測量が終わってしまえば、次に測量に来るのは、さらに水の引く一週間後でも構わない。  (今年は、去年よりだいぶ作付面積が増えそうだな) 去年の台帳と目の前の畑とを見比べながら、彼は、次々と巻物を処理していった。  順調に思われた仕事の手が止まったのは、午後に入る頃だった。  木陰で軽く昼食をとり、そういえばヘンレクの姿を一度も見かけていないな…と思い始めていた時、種蒔き用のかごを抱えた男が一人、大慌てで駆けてきた。  「あっ、お役人さん! 大変なんです、来て下さい。もう一人のお役人さんが、ぶっ倒れちまってさあ」  「…え?」 予想外の事態だ。  駆けつけてみると、木陰に寝かされたヘンレクが、真っ赤な顔で荒い息をつきながら、ぐったりとして四肢を投げ出していた。  「ヘンレク?!」  「あ、ああ…チェティさん、すいません…ちょっと、目眩が…」  「目眩とかいう話じゃないよ。具合が悪かったなら、早く言ってくれれば良かったのに」 腕を取ると、熱と、早い脈とが感じられた。この季節には、蚊に刺されたあとで高熱を出す病気が流行ることが良くある。もしかしたら、それかもしれない。  「とにかく、詰め所に戻ろう。すいません、誰か、手を貸してもらえますか」 周囲で遠巻きに見守っていた農夫たちから、何人かが名乗りを上げてくれた。  数人でヘンレクの長身を担いで、街へ向かう。  こうなってはもう、今日は土地の測量どころではない。それに、この分では明日からも、一人で二人分の仕事をこなす必要がありそうだった。  そんなわけでチェティは、ネフェルカプタハのところへは行けず、連絡も出せないままだった。  ヘンレクを医者に見せ、彼の実家に報せを出し、欠勤の届けを出して、一連の必要な作業を終えた時にはもう、日は暮れていた。  「はあ…。なんだか、一日で色々あったな」 宿舎の一階で遅い夕食をとりながら、さしもの彼も疲れた顔になっていた。  「聞いたぜ、ヘンレクの奴がぶっ倒れたんだって? 上司も大変だなあ」 食堂の隅で薄いビールを飲み交わしながら談笑していた年若い同僚たちが、チェティを見つけて声をかけてくる。  年は比較的近いがいずれも年上で、まだ未婚か、実家が遠方だからと宿舎に寝泊まりしている連中だ。  「熱病だってな。セクメト女神の気に障るようなことでもしたのかねぇ」  「どうだろう。回復したら、お参りに行くように言ってみるよ」  「担当の方は大丈夫か? 手が回らんかったら手伝うが」  「あー大丈夫だろ、チェティは計算が早いから」 若者たちが笑う。  「そういや移民が増えて、今年は仕事が多いんだよな」  「割当ては、巧くいってる?」 チェティが尋ねる。  「基本的には。下流の湿地とは畑の雰囲気が違うとか、水路の作り方が違うとかっつって愚痴ってる奴もいたけど、まあ、そんくらい我慢してもらうしかないな」  「こっちは果樹園が担当だからさあ、元が農夫なのに果樹園に割り当てられた連中、やり方が分からんらしくてだいぶ前途多難だぜ。来年、枯らしちまわなきゃいいけどな」  「王家の果樹園? 葡萄だっけか」  「あと、杏といちじくもな。水やりの人手が増えるだけでも嬉しいんだが、剪定のやり方と病気の見分け方くらいは覚えてもらわんと仕事にならんって、果樹園の管理人が言ってた」  「そのうち覚えるだろ。そんなに難しいことじゃないだろうし」 同僚たちの呑気な会話からは、州内のあちこちに割り当てられて散っていった、下流からの移民たちの実体が見え隠れする。  (…この数ヶ月で、一体、どれくらいの人が移住してきたんだろう) 食事の済んだ皿を片付けながら、チェティは、ふと、台帳の増加分の合計を出していないことを思い出した。  州の管理する土地に増えた小作農と、神殿所領に増えた耕作人の合計。――それが、この州に「合法的に」移住してきた人々の総数だ。  それに、下流の州から押し出された人々の数は一体、どのくらいなのだろう。この州より下流、もしくは上流に移住した人々の数は?  数を計算するのが怖い。もしも、その数が想定よりも多いのなら…人の消えた下流の州に入り込んだ異国人が同じくらいの人数なら。  この国では、この先、人の比率が変わってしまうことになるのではないか。そんな予感があった。  色度を終えて、二階の宿舎へ上がる。  自室に戻って床に腰を下ろし、チェティはひとつ息をついて目を閉じた。  今頃、ヘンレクは熱に浮かされながら、自室で汗をかいて横たわっているのだろう。実家に連絡は入れてもらったが、家から誰か人が来るにしても明日以降になるはずだ。一人で病床にあるのは不安だろうが、チェティのほうも、日が暮れてから見舞いに行くほど親しいわけでもない。  心配は心配だったが、今すぐに出来ることは、何もないのだ。  だからチェティは、今できることのほうに取り掛かった。  余計なことを頭から排除して、思考に意識を集中させる。  夜の闇の中、考えていたのは残りの仕事のこと。  そして――畑から掘り出された、あの、謎の三つの内臓壺のことだった。
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